社会に何かを周知させるため、その筋の専門家を登場させ、もっともらしく解説を加えるニュース報道をよく見かけます。マスコミの情報に懐疑的な人でも、専門家の語ることには、簡単に納得してしまいがちです。
専門家が周到に準備した解説を、一般の人が疑うのは大変難しいことかもしれません。しかし、自信満々に語る専門家ほど、実はうそをついている可能性が高く注意が必要です。
なぜ専門家はうそをつくのか
私はかつて自動車の排気ガス浄化に関する専門家でした。30年以上の会社生活のほとんどの時間、排気ガス中に含まれる有害成分とその浄化技術に携わっていましたので、社内外でその筋の専門家と認められる時期がありました。
この時代、私はさまざまなところで専門性の高い技術を紹介していました。もちろんうそをついているつもりはまったくありませんでしたが、さまざまな気遣いから、事実と異なることが数多く伝わり、多くの人に迷惑をかけたように思います。
専門家は、専門家と認めてくれる人の存在によって初めて専門家になります。それが、会社、マスコミ、一般社会など、どの関係者であっても、彼らが専門家として認めてくれなければ出番を失います。当然彼らへの配慮が、真しやかなうそを生む要因になります。
また専門家は、専門以外の領域に触れるのを避けます。なぜなら、そこは自分の知識が及ばない未体験の大海原が広がっているからです。専門家は自らの専門領域に固執して無難な対応を取ろうとするため、事実を歪めて語ることにつながります。
新しい発見は素人が見いだすことが多い
もちろん、最初から専門家になる人は誰もいません。私自身も、自動車やエンジンの基本も知らずに入社したため、業務に関するすべての領域でまったくの素人でした。
その私が研究所に配属され、難しいテーマを与えられたため、体験したことのない大海原に漕ぎ出し、知恵も道具もないのに、何とか大物を釣り上げようと悪戦苦闘する日々が何年も続きました。目の前に果てしなく広がる大海原の前では、私はいつも素人でした。
やがて多くの経験を経て、私は次第に周囲に認められる専門家になっていったように思います。30年ほどの会社生活を通し、数々の発見や発明が生まれ、数多くの特許を出願することになりました。
トヨタからの発明ということもあり、世界中の人々がそれらの特許を調べ、自分たちの製品に採用してくれたため、会社に特許料が入り、報奨金が私の元に届くようになりました。
今でも年末になると、それらのリストが会社から送られてきますが、実際に世の中の役に立っている技術は、私が素人であった時代に試行錯誤を重ねて生み出したものばかりになっていきました。
私が専門家らしくなり、関係者に配慮して生み出した発明の多くは、その当時は高く評価されましたが、早々と姿を消しました。
おそらく、このような傾向は特別なことではなく、重要な発見や発明は、その筋の専門家が生み出すより、実は素人が悪戦苦闘の試行錯誤を繰り返すことによって生まれるものなのでしょう。
大海原に漕ぎ出して素人になろう!
今年、トヨタ自動車を退職して10年が過ぎようとしています。エンジニアから国内宣教師というまったく新しい立場で大海原に漕ぎ出し、宣教の素人として試行錯誤を続けるダイナミックな日々を重ねています。
この間、これまで宣教に携わってこられた多くの先輩方の歩みにも触れてきました。宣教が進みにくい日本の中で、神様の御心に地道に従っておられる皆さんの謙遜な姿に大いに学ばされています。
それと同時に、戦後75年以上が過ぎ、配慮を必要とする関係性が宣教に携わる先輩方の中にしっかりと築かれていることを感じています。これらの関係性は、共同体を大切にする日本の宣教にとって大切なものであることは言うまでもありません。
しかし、同時にその良い関係性が、宣教の専門家である諸先輩方にとって、大海原に漕ぎ出せない要因になっている面も多いように感じています。
大海原に漕ぎ出すためには、時には既存の関係性から離れることが求められ、そうなるとあらゆるリソーセスが不足し、大きなリスクを背負うこともあるでしょう。培った専門性はほとんど役に立たず、素人になる覚悟も必要になってきます。
しかし、やがて神様の大きなメスが閉塞感のある日本宣教の中に入るとき、多くの神様の器が、我先にと大海原に出て網を降ろしていく時代が訪れると思います。その時の大収穫に備え、私たちは周到な準備をさせていただきたいと願っています。
深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。(ルカの福音書5章4節)
◇