「神と一つ」とは、主に以下の二つの解釈に分かれます。
・区別のない一体性と同一性
・区別のある一体性:独自性を伴った合体や合流、婚姻による結合、個々の性質は消滅しない融合
後者の視点では、一体性は同一性を意味するのではありません。ヒンズー教やニューエイジの考えでは従来、一滴の水滴が海に吸収されるさまに例えられます。水滴はアートマン(魂)で、海はブラーマン(非人格的な神の霊性)。神に完全に吸収されるとき、水滴はそれが吸収される海と区別がつかなくなります。この例えは、現在無知な人間でも、自分自身が神であるということを認識する過程にあり、実際に自身が最終的に神になる旅の途中にいるという概念です。輪廻転生のサイクルが最終的に終われば、魂は完全に「自意識」とのつながりを失い、転生のサイクルを通して得てきた人間の人格すべての枠組みを喪失するという考えです。制限がなくなり、人間の中の見えない神性が十分に発現するというのです。
哲学的なヒンズー教徒や大半のヨガ行者、ヒンズー教の宗教家たちにとって、これこそが「神と一つ」であるという究極の定義です。人生における進歩は、この一体性を現在悟り、「より高度な自己」(ブラーマンと同質)による神の導きと高度な意識の中で生きるという考えです。インド哲学のこの見識は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(アドヴァイタとは「非二元性」の意味)と呼ばれます。この考えの主な提唱者はシャンカラ(700~750年)です。彼は、人間と神は一つで同じだと教えました。私たちはマーヤー(幻影)のせいで個々の自己や存在を認識するだけなのだと。世界とその中のすべてのものはブラーマンが具現化したもので、最終的には元の姿に戻るという考えです。この解釈は一元論及び多神教の世界と創造主の視点に基づいています。
ヒンズー教の中でこれに相対する見解は、ドヴァイタ・ヴェーダーンタ(ドヴァイタとは「二元性」の意味)です。この概念の推進者の一人、マドヴァ(13世紀)はヴィシュヌが最高の神で、発展した魂の究極の運命は相関的なのだと教えました。つまり、それは阻害や制限のない個人的な神との結合の最終的な実現を意味します。この視点によれば、世界は現実であり、幻影ではありません。魂は神に依存していますが、神とは異なり分離しているのです。興味深いことに、マドヴァの支持者たちは、彼をヴィシュヌにより善良な人々を救うために派遣された風の神ヴァーユの生まれ変わりだと信じる一方で、(アドヴァイタ・ヴェーダーンタを説いた)シャンカラを悪の力から遣わされたと信じたのです。マドヴァの視点はキリスト教の教義にいくらか構造的に似ています。しかし、相関的な「神との一体性」に到達する人間の運命を示唆しながら、いかにそれを実現するのか、あるいは、結合すべきその「唯一の存在」は誰なのか、正しく教えてはくれません。イエスは彼の教えに従う人々に、現時点での、そして究極の神との一体性を確実に約束されました。しかし、その一体性を得る方法は、東洋の諸宗教が教える手段とはかなり違っているのです。
教会のための素晴らしいイエスのとりなしの祈りの中で(ヨハネ17章参照)、イエスはどうやってこの神との一体性を(「達成できる」のではなく)受けられるかを明らかにされています。
父よ…わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れ…あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。…あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハネ17:1、8、21、22)
イエスが話した言葉(神の御言葉)、また彼の上に示された栄光(聖霊)を通して、信仰者たちは父なる神との一体性を経験することができるのです。現世においてそのような状態を実現でき、滅すべき体が失われるとき、それは終了し、完成するのです。では、何が違うのでしょうか。東洋の諸宗教はそのような状態は、無知を取り除き、さまざまな方法(瞑想、念仏を唱えること、巡礼や奉仕など)を通して、高い意識の状態に達成することで得られると教えます。すべての人間に内在する可能性だと教えるのです。ただ、その可能性が開眼するだけだと。
一方、キリスト教は、神との一体性はすべての人間に内在する潜在能力ではない、と教えます。それは外的影響の産物であり、神からの贈与なのです。神から約束された贈り物として、神の導きに従って模索する者に許されるのです。キリスト教では、神は超越的な神です。人類は罪により神と断絶されています。よって、引き離されてしまったまさにその神と、救われていない人間が一つになることなど、不可能な話なのです。この憂慮すべき魂の状態は、イエスが約束する霊的な再生により、素晴らしく修繕されることができます。イエスの血潮により罪から清められると、神の霊がその人に入り、それが可能となるのです。神との正しい関係を修復する人間に残された、ただ一つの手段なのです。この経験なしでは、いかなる「神との一体性」の主張も(模索する人が得られる賜物として)概念的には正しいかもしれませんが、(模索者が獲得する経験として)経験的には正しくはないのです。
私がヨガの教師であったとき、私は真剣に、自分は神との一体性を有すると信じていましたが、それは真実ではありませんでした。イエスの御言葉に沿って神に近付き、神の霊(神の栄光)を私の心に受け入れるまで、神とのつながりを真実の意味で経験したことは決してなかったのです。キリスト教と哲学的なヒンズー教の一元的及び多神教の視点を比較するとき、その違いはもっとも明確です。ヒンズー教の考えの基盤は、すべての人間を神格化します。すべては神の具現化した姿なのです。しかし聖書の見解は、人間は神ではなく、また決して神にはならないのです。一体性は同一性ではないのです。アダムとイブは初めに婚姻において一つになりましたが、イブはアダムにはなりませんでした。後にパウロは婚姻の例えを用いて説明しています。
それゆえ、人は父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。この奥議は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エフェソ5:31~32)
この問題に関して、東洋の視点は、まるで虚構の、窮屈な、十分に備わっていない家屋のようです。真実の枠組みはそこにあるのですが(神は私たちと神との一体性を経験してほしいと願っています)、しかしどのように一体性を経験するのか、その方法が抜けているのです。もちろん、信仰深く愛情深い、とても誠実なヨガや東洋の諸宗教の生徒たちに出会うことがよくあります。道徳的で高潔な、自己否定する生活の中で、神の意志ととても調和して生きていると思います。大抵の場合、彼らの日常の目標は、彼らの言葉で言うところの「より高度な自己」の直感的促しに従い、生きることなのです。この内部からの影響は、大抵意識であり、道徳的に正しいこと、正しくないことへの潜在的感覚です。この意識は神からの贈り物ですが、心の中に実際に神が存在する証拠ではありません。この内部の影響に自らを委ねる者は、彼の道徳的要求を満たす人物になることで、非常に限定的で条件的な意味では、神との一体性に到達するのかもしれません。しかし、神の戒めを守ることと、神の個人的臨在に満たされることでは、大きな隔たりがあるのです。
奉仕的な生活をするさまざまな宗教の人々を私は深く敬愛します。私の心は彼らを思い、深く痛みます。なぜなら、彼らの生活の中に、神への献身、彼らの真剣さ、神への飢え渇きが明白であるからです。ああ、彼らが次の一歩を踏み出し、求めるすべての喜び、平和、そして満たしの基盤、つまり主イエス・キリストを見つけることができますように。最後に神の御国で、神の息子や娘たちがきらきらと輝く時が来ることを、聖書は預言しています。彼らは絶対的な完璧さで神のイメージを自らに反映させるでしょう。これらの贖(あがな)われた個人たちは、これ以上ない、完璧な状態で神とのつながりを経験するでしょう。しかし、永遠の命を受け継ぐ者たちは、無形の、世界を満たし、あまねく偏在する霊になるわけではなく、また、神の霊と判別不可能な形で一体化するわけでもありません。永遠の命を受け継ぐ者たちは、明確な形を持ち(永遠の栄光を受けた体)、彼らは常に個別の、独立した人格として存在します。彼らは神からは区別されますが、神と永遠に続く、喜びに満ちた一体性を、神との関係の中で楽しむでしょう。そうです、私はパウロに同意します。これは偉大な奥儀なのです!
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