岡上菊栄の生涯をこうして見ていくと、彼女の理想とするところが次第に見えてくるような気がします。24時間体制で子どもたちや誰も顧みる人のいない老人や行き倒れの人たちを救済する仕事を長きにわたって行い続けた菊栄は、次のような文章を「三十余年の懐古」という自伝の中に残しています。
「このありがたい日本の御国を、より良くより美しくするためには、飲酒、淫楽、乱婚は絶対に抹殺されなくてはならないと思うのは、長い間、悲惨な子ども等とともに生活してまいりました私の燃えるような願望でございます。まことに貧は恐るるに足らず。家庭あり、自らは最高学府たる大学まで卒業しながら、わが子に痛ましい病を伝え、この園に投げ棄てるようにして入れなければならない親こそ、悲惨の極みでございます」
菊栄の歩みを見ていると、日本という国を「より良くより美しく」したいという理想がその胸中に行き来していたことが分かるような気がします。目の前の子どもたちを養育していく中で、その背景にある大人の世界、人間の姿、社会の矛盾などが彼女の脳裏をかすめていたのでしょう。子どもが棄てられたり虐待されたりする背景に、大人たちの身勝手さがあったり、社会全体の悪しき風潮があったりする現実に菊栄は心を痛めていたのでした。彼女は自身の使命を同じ自伝の中で次のような言葉にして残しています。
「私の仕事は社会のどん底を掃除する役目でございます。いわば社会のどぶさらへでございます。(略)私の手しほにかけた子どもは、まだ大臣になった子も、富豪になった子もございません。けれども三百人の私の子どもが、一人も犯罪を行わず、よき社会人として、大工、理髪師、樽職人、百姓、電車の運転手などそれぞれ御国のために働いていることは、私のこよなき喜びでございます。(略)この園などは、入らなければならない哀れな子がなくて必要なくなる日は、何時くるのでしょうか。(略)この博愛園なども、もっともっと、子どもらのために改善されなくてはなりません。いかに惨めであろうとも、御国の宝なるこの子どもらとともに生活しつつ、祈りつつ、努力してゆこうと存じます」と。菊栄の熱い思いが伝わってくるではありませんか。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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