なぜ日曜日に教会へ行かなければならないのか。自分一人で聖書を読み、お祈りをしていればいいではないか。
人間の普通の生活は、目から、耳から、口から、要するに五感のすべてから情報が入ってきています。テレビの声、電話の音、飲食のこと、家周りのこと、ご近所との会話、仕事の思い。人間関係上の競争・優劣・勝負を思い出し、そこから生じる恨み・憎しみ・ねたみなどが心を駆け巡ります。時には、悪い刺激や誘惑も来ます。私たちの脳中に、この世のもの、世俗の波が押し寄せてきます。私たちの思考、感情、注意力はそちらへ引っ張られています。
私たちは、職場はもちろん、自宅でも神のもとにとどまっていることが難しいのです。月曜日から土曜日まで世俗の思考でいっぱい。押し流されそう、溺れそうです。そうならないために、自分をむりやりにでも“神の前”という環境に置くことが必要なのです。つまり、神のことを考え、神につながる環境“教会”に自分の身を置くことが大切です。
教会では、オルガンの音に合わせて皆と賛美歌を歌い、聖書のことばを声で聴き、お祈りをし、老若男女の信徒の笑顔に接するなどにより、“神の前”という、世俗とは違った環境でくつろぐことができます。
教会で、週に一度でも神の語り掛けを聴いて、自分の生活と世界の在り方を考え直してみることが大切なのです。
聖書のことばも、いつも自分一人で読んでいると、読み方にもいつの間にかある偏りが生じてきます。しかし教会に行くと、朗読する聖書の箇所などにより(長い間に)満遍なく接することができます。
祈りについても、いつも自分一人で祈っていると、やはり自分のことしか祈れなくなります。感謝や賛美を伴った祈り、広くこの世界のうめきや救いの祈りも大切で、それは教会で共に祈るときスムーズなものになるのです。
教会には、立派な人も、愚かな人も、強い人も弱い人も、平安な人も苦しんでいる人も、能力のある人もない人も、老若男女さまざまな人がいます。自分だけの順調な人生を考えるのではなく、そのような人々とのあいさつや会話などを通して、この世の喜び・悲しみ、悪や悲惨をも感じ取り、伝道の必要性も考えるようになりますし、終末・再臨も意識できるようになります。要するに、人は、他の信徒との交わりをも通して、研がれ、砕かれ、成長させられ、愛の実践へと導かれます。自分一人ではできにくいことを教会でするのです。
「イエスは・・・こう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい』」。この宣教命令も、一人ではなかなかうまくできませんが、教会で信徒が協力するとできることが多くあります。
旧約の時代、神の民がその聖なる神の前に出るのが安息日でありました。それが律法化して民を縛るものになりましたが、新約の時代は主イエスの復活を喜び、記念する日となり、聖日として神の前に出る日となりました。安息日の考え方はおおむね聖日に読み替えられるようになりました。
安息を守ること「これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである」(出31:13)。
聖日に集まって共に神を礼拝することが、神を信じる者のしるしであるともいえます。
ある人は「自分一人で信仰の道を歩む」と言って、教会へ行かなくなる人もいますが、そうなると、世俗の波にさらわれ、徐々に神から離れ、結局は不信仰な民に戻っていくものです。要は「自分一人で」というのは言うに易く、行うに難しなのです。
イエス・キリストを信じる者の群れ「教会」「集会」につながり続けましょう。
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