提言、日本的教会
これからの日本の教会の方向について、筆者なりの考えを述べたい。自分にそのような資格があるかを考えると、筆致が鈍るものである。厚顔無知を恐れず、いま感じているところを述べたい。筆者の論の至らないところを指摘し、批判していただければ、それだけ日本の宣教は進むのである。
さて、前回までに大胆にも見える見解を打ち出すところがあったが、それらはたとえ部分的であっても、すべて事実の裏付けがあった。ところが、今から述べることは、実証済みのことはほとんどない。しかし、恐れをもって、これらを試案の意味で日本の教会に対して提出したい。願わくは、主がこれを取り用いてくださることを。
個人的なことを言うと、80歳を過ぎた今日まで、ごく普通の牧師で平凡にやってきており、ここに書くことの多くは実行していない。既成の教会では、路線の変更はなかなか困難である。
牧会というものは、積み荷をよく縛ってないトラックのような面がある。急ブレーキをかけたり、急カーブを切ったりすると積み荷が崩れて、荷物がバラバラと落下するかもしれない。正しいことであっても、強行はできないのであって、強行することにより大切なものを失うことがあり得る。
この度、導きによって開拓伝道の機会を与えられた。ここに述べることは、すべて自分も勇気を与えられて実行するつもりである。主よ、憐れみ給え。
先生という呼称
プロテスタント教会では、牧師は「先生」と呼ばれている。日本のいろんな宗教において、宗教家は「和尚さま」「おっさん(御師様)」「太夫さん」「神父さま」などの呼び掛けを受け、また外部からは「〇〇さん」と苗字で呼ばれている。「先生」と呼ばれている例はほとんどない。ところが、プロテスタント教会においてだけ「先生」である。(僧侶などで副業で学校の教師をやっておれば、学校で、また父兄から「先生」と呼ばれるが、それは僧侶としてでない)
先生とは教育する者、訓練者であるが、同時に採点者、評価者の意味である。日本のプロテスタント教会においては、牧師自身の意識も信者側のそれも「先生」になってしまっている。
そもそも教師とは幼い者、未完成な者、未熟な者のために存在する。子どもは学校に通う、病人は医者にかかる、何か習得したい者は師につくのである。
一人前の健康な成人は「先生につく」ことはない。もしあるとすれば、医者にかかるときか、または趣味を習うときである。医者には「かかる」のであるから除外して、ここでは先生に「つく」ことだけを考える。「つく」とは、ある一点において相手が自分をコントロールする、また相手を自分の評価者と認め、その評価を受け入れることを意味する。その習い事以外では一人前の人間であるが、その一点では未熟であって、指導を受ける。これが「先生につく」ということである。
一人前の成人は取引先、商売相手、友人、同僚、仲間などという人間関係を持っているが、普通「先生につく」ことはない。たとい企業において研修会があり、講師に「教えてもらう」経験を2、3日やったとしても、終わると懇親会や反省会をやって一杯飲む、そうして対等な関係に戻るのである。
小学校では、学級の担任(受け持ち)が全科を教える。であるから、子どもに対して教師は「知的世界のすべて」である。また人格的な事柄の指導もするから、教師は子どもにとって「道徳世界のすべて」でもある。担任は児童の学業をはじめ、立ち居振る舞い、返事の仕方、掃除の仕方、交友関係、積極性まで指導する。通知表には「もっとちゃんと返事をしましょう」などと書かれたりする。
そのように、児童の評価を一人の教師が行う。ある意味で、児童が学校にいる間は教師が全世界を代表する。そういうわけで、教師がその子を気に入らないと不幸なことになる。こういうふうに、小学生は「受け持ち」の教師の下に置かれ、全人的に評価される。このように受け持たれる状態は、子どもが未熟だからである。
中学になると、少し変わる。専門科目を教える教師がいる。教師は一人だけではない。英語の教師には認めてもらえなくても、国語の教師にはかわいがられたりする。全人的な評価はなくなるのである。高校、大学となると「先生」と「学生」の関係はもっと非人格的になり、いわば希薄になる。知識や技術の受け渡しが主であって、人格的な向上や修練は、学生はもう大人であるので(またはそう仮定してあるので!)、学生各自が自然に教師から無言のうちに受けるのである。だから大学生は、信仰を持って教会員になり、そうして牧師を「先生」と呼んでも、彼にとっては先生と呼ぶ人はたくさんいる。牧師は、その一人にすぎない。
ところが、日本のプロテスタント・キリスト教会では、一人の牧師が、小学校での受け持ちの教師のように信徒の採点者となっている。これはひとえに「先生」という呼称が、そういう理解を信徒の側にも牧師の側にも生み出しているのである。その牧師にヘンなやつだと思われれば、教会でのその人の立場はなくなる。それが、単に牧師の常識とその人の常識のずれにすぎないとしても、大きなことになる。教会は「先生」の常識が支配しているからである。
普通、成人が何か趣味を習うときは、その一点でだけ教師に付く。だがプロテスタント・キリスト教会では、牧師は全人的な意味での教師になっている。彼は教えると同時に、全人格的な意味での「採点者」になる。つまり相撲部屋の師匠より、また落語の師匠より、もっと徹底的な師匠になっているのである。プロテスタント教会のクリスチャンは集会に参加中は、祖師を中心とする高僧の集団のようなものの中にいるのかもしれない。
これはもう、かなり異常な状況である。それが一般のプロテスタント教会の状況なのである。こうしてクリスチャンは、教会ではほとんど小学校児童のような扱いを受けている。成人してから、このような「全人格的に及ぶコーチ」を受けるシステムというのはあまり普通でない。これはもうほとんど人格に対する侮辱である。日本の社会で、そのような扱いを受けている人は、力士や、落語家の弟子の他にはいないのではないか。こういう小学生のような扱いを忍べる人というのは、よっぽど特殊な人だと言わねばならない。独立心のない、自我の確立してない人かもしれない。
だから「例外的な人」でないと、教会に通い続けられないのではないか。これは、決して健康な状態ではない。これが教会の敷居を高くし、垣根を高くしてしまっているのではないか。この関係が、日本の教会の発展を阻害しているのではないか。
普通社会では、「先生につく」のには終わりがある。「卒業・終業・免許皆伝」がある。ところがプロテスタント・クリスチャンは、いつまでも「先生」を持ち、そうして「子ども扱い」を忍ぶのである。つまり信者は、いわば「住み込みの弟子」みたいに扱われているのである。落語の師匠に入門して、内弟子になるのと似ている。これはどう見ても、聖書に述べられている牧者と信徒の関係とは違う。
確かにクリスチャンは、子どものように恵みを受けるようにと言われている。しかし知恵においては大人となれ、とも言われている。大人とは、社会の判断と評価に晒される存在である。大人とは「親の評価と教師の評価からもう離れた者」のことである。つまり単一の個人に評価してもらう、という状況が終わって独立した者のことである。
ところが、牧師を「先生」として仰ぐことによって、牧師の価値判断にすべて任せる、プライベートなことも知られ、判断されるようになる。そのように濃密な関係の中に置かれる。ただし内弟子ではなくて、週に1度か2度だけの通い弟子なので、集会に出ているときだけの関係である。
そうして集会では、牧師に対して幼子のように振る舞うのが良い信者。それに反し牧師からは距離を置いて、自分を隠しているのは悪い信者、よそよそしい信者、というような雰囲気が教会を支配する。牧師は「先生」であるので、目を大きく開けてプライバシーまで見抜こうとする。それがまさに「先生」の指導であり、責任であると思っているのである。
こうして日本の牧師は、聖書が課してもいない重荷を勝手に担っていて、それに喘いでいるのではないか。誰もそうなっているのを疑わず、牧師は一生懸命に担いでいる。それが、日本の教会の生命を損なっているのでないか。それが「先生」という呼称に表れているように思うのである。
牧師には、理想像や型がある。そうして、その型に信徒が合致してくると成長したと考える。そういうところがありはしないか。習い事の集団と同様に「型」が支配しているのである。それで、あの人はいまだダメだとかいうことになる。お祈りするときに、もっとハキハキ大きな声でやらないとダメだ、とか言ったりして、教会から自由を奪っているのかもしれない。牧師は、そういう「型」があるのが当然だと思っている。また信徒も、そういう「型」があれば一生懸命にやる。そういう体質の人だけが残っていくのかもしれない。
「先生」という呼称によって、牧師は自分が全人格的な事柄のコーチであるという思い込みを負わされている。それで自分の価値観で相手を支配しようとしたり、自分の好みのタイプに相手を仕立てようとする誘惑がある。それが、自分の職務であると思ってしまう。すると先生の好みのタイプでないと、信徒は拒絶されていると感じ、自分は何も悪くないのに、この疎外感は何だろうと思ったりする。
こうやって日本の教会は、エネルギーを内部で使い果たし、外に出て行く力を失っているのではないか。それは教派内でも起こっていることであって、若い牧師は先輩牧師の考える「型」にはまらねばならない。そこから自由を失う、力がない、疎外感に付きまとわれる、ということになっているのではないか。
牧師が信徒を内弟子のように考え、そのことを責任と感じる。箸の上げ下げまではいかなくても、不必要にプライバシーに入り込んだりしたり、極めてプライベートな指導をしなければならないと思ったりする。牧師の態度にはそれが入り込みやすいが、それは「先生」という呼称の宿命である。せんせい、センセイと何十年も呼ばれているうちに、抜きがたい第二の性質となってしまっているのではないか。小学校の教師は教室を支配するが、牧師は教会を支配してはならない(昨今は教師も教室を支配していないが)。
牧師が、よっぽど器量の大きい優れた人格の持ち主であれば、これらを乗り越えて多種の人を包容して牧会できるだろう。しかし、それは普通の人間には難しく、結果として限られた人による小さな集まりになってしまうのではないか。そうして例外的に器量の大きい特別な人物だけが、少人数礼拝の状況を越える。それが日本の教会の現状のように見える。
教会側からは、無教会のことを交わりが無いとか言って批判するが「聖職者」という存在がないだけ、無教会は伸びているのかもしれない。礼拝に話を聞きに来て、あいさつして、それだけで帰っていく人がたくさんあってもいいではないか。
主イエスは、教師と呼ばれるな、教師は一人だけ、それは私のことである、と言われた。これに反して、日本の牧師はみな教師になっている。平気で、聖書の教えを破っているのである。もちろん使徒の働きには「教えた・・・」とたくさん書いてある。教えるのは大切な仕事である。だが、主は教師となるな、と言われた。それは師弟関係という人間関係になるな、「採点者になるな」と言われたのでないか。そうしてまた、牧師と信徒は友人であれ、と命じられたのではないか。
ヨハネ15章では、イエスご自身が我らを「友」と呼んだ、と言っておられる。もうそのように決めた、というのである。お前たちは「しもべ」ではないと言われて、キリストと我々は上下関係にはなくて、対等の関係だぞ、と言ってくださっている。
教師は、採点者という高みから相手を見て評価し、指導する。友人なら相手に対して敬意をもって接し、採点しない。指導などしない。支配しないし、友人の性癖やこだわりを変えようとはしない。ただ受け入れる。
小生に16歳の時からの友人がいる、60年以上の付き合いを互いに大切にしている。5日に1度くらい電話でしゃべる。お互いに、少しは尊敬しているところがあるかもしれない。相手に欠点はあるのだろうが、見えたことがなく、気にしたこともない。彼にはかなりこだわりがあるが、そのような性癖はいつも面白いと思っている。それが友人というものである。
また友情とは壊れやすいもので、たぶんどちらかが相手を支配しようとか、相手の癖を直そうとした途端に壊れるのだろうと思う。主は「お前たちは先生(ラビ)と呼ばれるな」と言われたが、それがラビの弊害を言われたのか、パリサイのことを言われたのか議論の分かれるところである。
だから日本の社会で、牧師が「先生」と呼ばれるのは聖書に反している、などと簡単には言えない。この聖句によって、牧師を「先生」と呼ぶのが非聖書的である、とただちに決め付けるつもりもない。しかし、信徒に対していつも「先生」である牧師、また信徒に対して「友人」 になったことのない牧師があるとしたら、その人はイエスに従っていない。それだけは、確実に言えるだろう。
主イエスは「あなたがたを友と呼んだ」と言ってくださった。もったいない話である。尊重してくださっているのである。だから続いているのである。ところが、牧師は信徒に対していつも採点者の高みから見ていて、友人になったことがないとしたら大変である。
どう見ても、このような日本の教会における「先生」と「信徒」の関係は、かなり独自である。日本の他の宗教にはないばかりか、外国のキリスト教会にもない。つまり日本の教会は外国では見られず、また日本の社会でも、他には見られないようなことをやっている。福音は、キリストの教会での牧師と信徒の関係はこのようであれ、と教えていないはずである。
もう一度繰り返すが、学生は牧師が「先生」であっても、あまり抵抗がない。なぜなら、彼は多数の教師に接しており、牧師はそれら先生たちの一人にすぎない。ところが、社会人クリスチャンや主婦だと「先生」は一人だけ、牧師が自分を総合的に評価するただ一人である。これはおかしい。
これと似た問題として「温かい教会」また「家族的な教会」というものが理想のように言われることがある。「牧師夫人は、教会のママである」というふうに言われることもある。牧師と信徒との関係は「親のようなもの」であるように、その方向に自己定義をしたい、そういう雰囲気があるかもしれない。
子どもが相撲の部屋に入門するに、親は子どもに「これからは〇〇親方を親だと思って修行し・・・」のように言うことがある。この「親方をこれからは親と思って・・・」とは、家族の共同体の否定の方向を持っている。これはその芸能集団の基底に「出家集団」があることと無縁ではないだろう。もちろん出家とは、家族の共同体の否定である。そうして教会が、自分たちこそ真の家族である、というような意識で家族を否定すれば、それは新しい「出家」になるので、それは福音的ではないだろう。
相撲の部屋は「芸能の集団」が家族の共同体を否定し、それを超克している、そういう思い入れがある。これは「出家」の概念がその背後にあるからだ。ところが、教会は出家者の群れではない。2つの共同体に対抗し、それらを否定し、教会という共同体を第一に持ってこようとするのは正しくない。
ある信徒伝道者が、礼拝に集まる人に「お帰りなさい」と言って「迎え」て、礼拝が終わって家に帰る人には「行ってらっしゃい」と言って「送り出し」ていた。彼は礼拝を大切にし、家庭の価値を否定するほどのものとしていた。だが、福音はそのような出家的な態度をあえてしない。これは悪くすると出家主義につながる。
ガダラの悪霊つきは癒やされたあとで、主イエスの一行について行きたいと願ったが、主はそれを禁じて家に帰るように、そうして主の業を近隣の人々に告げるようにと言われた。家族に忠実に、また会社にも忠実に、その上で教会という礼拝者共同体にも所属するのである。日本人のクリスチャンは忙しくて大変である。だが、そこには日本独自の祝福がある。
対策は何か。それは、この「受け持ち教師と小学生」的な、異常な濃密さの関係は、聖書が命じている牧師と信徒の関係ではないことを認識するところから始まるのでないか。主イエスは「友」と呼ばれた。だから両者は対等である。
このように「センセイ」という呼び名は、どうも日本宣教学の観察から言って廃止すべきものの第一のように思われる。「知恵においては大人」となれというのは、複数の者に評価してもらいながら生きるということであろう。だから「親を離れて・・・」と命じられているのだろう。子どもの時代とは教師の評価で生き、親の評価によって生きる時代である。
大人とは、社会の評価でやっていく者という意味である。すなわち誰とは決められない「社会」の評価によって生きる者なのである。親の評価によって生きる者は、子どもである。一人の教師の評価によって生きるのも、子どもである。
教師から見て優等生であるが、社会ではサッパリという人がいる。大人とは教師の評価でなく社会の評価で生きる、という切り替えができていない。クリスチャンになるということは、牧師の評価に全面的に頼るということではない。まさか牧師から見て教会の優等生で、社会では通用しない、という人もいないだろうが、仮にそういう人を生み出すのを目標にしていると大変なことになる。
だからこそ植える者、水注ぐ者があるが育てるのは神だけ、とパウロも言ったのだろうか。影響を与える者が複数であることを言っているのである。小学校の受け持ちなら、一人だけである。「私が育てた」と言いたくなるだろう。
牧師は、信徒のことで知らないことがいっぱいあっていいのである。信徒は、すべてを牧師に報告する必要はない。そうしなくても、悪い信者ではない。また、教会の仕事を一斉に皆が分担し協力してやらなくてもいい、平等でなくていい。仲間にならない人がいてもよいので、礼拝に来て、祝福を受けてそれだけで帰っていく人があってもそれでよいのである。
異常な、濃密な関係を求める人もいるだろう。そういう雰囲気がないと「冷たい」とか「よそよそしい」と感じる人もいるだろう。そうやって信徒を「世話」することで、生きがいを感じる牧師もいることだろう。いろんなタイプの教会があってよい。しかし、誰かに深く入り込んで世話していないと、自分が不安定になる人がいる。そういう牧師もいる。これは時に神経症の一種で、治療が必要なことがある。いろんな教会があっていい。しかし、濃密さが理想であると思ってはならない。そういうものを牧師が理想とするあまり、傷つく者を出し、そこから脱落者を多く出している教会もある。
外国の教会では、牧師と信徒との関係はどうであろうか。「全人格的な事柄のコーチ」でないことだけは確かである。米国の礼拝に出て、終わって列を作って牧師と握手しあいさつする。5分後には誰も居らず、執事が扉を閉めてカギをかける、その一連のスムーズな流れを見ていると、この国の教会の交わりはもっと割り切れている。濃密なものを理想として求めてはいない。それだけは事実である。
牧師は、礼拝を司る者である。信徒の先頭に立って祈りと賛美をささげ、また神の言葉を取り次ぐ。信徒がどういう人格に成長していくかは本人と神様で決まる。それは聖霊様の役目で、牧師が立ち入るべきでないところが多くある。
日本の教会は日本の文化に「妥協」し、あるいは「適応」した。その時「習い事の共同体」の形を借りた。そうして「市民権」を得た。これは、ある程度はやむを得ないだろう。また社会に既存する制度に合わせるのは、聖書的な原則でもある。
しかし、どうもそこで悪い「妥協」をしてしまい、師匠の宅に内弟子として入ったかのような、または禅寺に入った小僧みたいな、そういう師弟関係が理想のように思ってしまっているかもしれない。師匠に自分の精神の全面を開け渡す、それが良い信者である、そういう暗黙の了解が教会の中のどこかにある。これは危険ではないか。
信徒は聖霊のお働きにより成長するのだが、そのお働きの受け方まで指導されなければ本物でないような雰囲気があるのではないか。こうして社会の他のところでは見られないような不健康な集団を作ってしまい、その結果、閉鎖的な特殊な性格が生じているのでないか。
教会は、日本社会において「師弟関係」や「習い事」の半共同体という仮面をかぶることによって存在させてもらい、その結果として、日本では他に見られない歪んだ性格を持ってしまったようである。これはどうしたら修正可能だろうか。
「習い事の半共同体」をパターンとして教会が形成されている、というのは、ある意味でやむを得ないことである。それしかないのかもしれない。日本の教会の成立のために、それ以外のパターンがあるのだろうか。
これまで日本の社会に全然存在しなかった構造のものを作って、それを教会とする、というのも無理だろう。それは聖書が示しているパターンではないであろう。礼拝者の共同体は、それまでに社会に存在した集団の構造を借りる以外にはない。それは、聖書的な原則だと思うのである。
このことについては、読者の方々からご意見を頂きたい。互いの見聞きするところを交換し合うならば、大きな貢献があると思う。また、すべからく日本の教会は、自分の構造のパターンについて自己を分析し、手直しをし、実験し、報告し合うべきであろう。本格的な日本宣教学はそこから始まるように思うのである。
日本の教会の修正の第一歩は「先生」を廃止することではないか。〇〇さん、牧師さん、教会長さん、会長さん、とするとお互いに余分な重荷が無くなり、教会内の雰囲気も変わるのでないか。公式には「先生」を使わないのである。天理教式に「教会長」または「会長」は、日本的で非常によいと思う。牧師を資格名とし「会長」「館長」などを職名とするのである。「教会長」なら宗教家であることが明白であり、組織の運営に関しての権威も役割も表示しており、しかも「先生」ではない。偉いかもしれないが、プライベートなことのすべての採点や評価はしないのである。個人的には、会話の時の呼び掛けまで「先生」を禁止するわけにもいかないだろう。しかし、正式なときに「先生」を使わないのである。礼拝の司会者も「・・・では〇〇長さん(または〇〇さん)にお話をお願いします」となる。それだけで、意識は変化するように思うがどうか。
プロテスタント教会で「教会長」を使用しているところが一例ある。最初は非常にアレルギーを感じたのであるが、考えてみるとこれはよい。プレマス・ブレザレンでは「〇〇兄」と呼んで先生とは呼ばず、信徒同士は〇〇さんである。しかしだからといって、非常に伸びているわけでもない。説教者の呼称を変えるだけでは、あまり教勢とは関係がないかもしれないが、実験する価値はありそうである。ただブレザレンで伝道者だけを「〇〇兄」と呼ぶのは、あまり日本的な感覚にはなじまないような感じである。たぶん英米での「ブラザー〇〇」の直訳だからだろう。
ある全国的に集会を展開している群れでは、その最高責任者のドイツ人宣教師は「〇〇〇さん」と呼ばれている。これは定着している。ドイツ名であるので、誰のことを言っているのか間違える心配もない。
また筆者が交わりを頂いているある開拓中の教会では、牧師の個人名をさん付けで呼ぶ。牧師は「ミツオさん」で、夫人は「〇子さん」である。まだ定着しているとは言えないが、貴重な実験であると思う。ただ問題は、日本社会の中の集団で、苗字でなくて名前を呼び合うのは血縁集団、または幼なじみだけ、という慣習がある。この教会はそれを破っているわけで、一般社会に奇異な感を与える可能性がある。
「習い事の共同体」と「先生」の弊害を強調した。しかし、同時にこれにより他国の信者にはない良さも持っているのではないか。
一つは、学習や読書の熱心さということであろう。もう一つは、ささげ物の大きさということであろう。また、親密な交わりも挙げることができる。この親密さは、また逆に危なさも持つのであるが。
パラチャーチ(伝道団体)の場合は、職名が主事、総主事で、呼び掛けは「〇〇さん」でよい。ただ事務職員、またはビジネス担当の感じがしないでもない。hi-b.a.(ハイビーエー、高校生聖書伝道協会)では、伝道スタッフも「〇〇さん」と呼ぶ。これが定着しており、非常に自然な感じである。
米国の東部で皆としゃべっていたとき、ボブ、とかジャックとか言っているのに、牧師だけはロバート・〇〇〇のようにフルネーム、略称無しで(ロバートなら通常はボブ)呼んで話していた。なぜそう呼ぶのかと聞くと、それは牧師に対する尊敬の表れである、と言っていた。なるほど、米国でも少しは区別があるのだ、と思ったことである。
カリフォルニアなどの西部では、教室でも教授に対して「ボブ・・・」と略称で話し掛ける。東部では必ず「ドクター〇〇」、学位のない人のときは「プロフェッサー〇〇」と呼び掛けたものである(ただし、1970年代の初め)。
日本の教会の場合は「〇〇さん」を使うのが一番簡単かもしれない。人数が増えてきたら「〇〇〇〇さん」とフルネームで呼べばいい。それでも混乱するようなら「牧師さん」で十分に使える。ただ「牧師さん」は、すぐセンセイに化ける恐れがあるかもしれない。
教会は、それが置かれている国の文化の影響を受け、文化が色濃く染み込むものであり、それを免れているものはない。いや違う、自分の教会はそうでなく、日本文化によって毒されていない。うちこそは宗教改革の伝統に従って、これに忠実に歩んでいる・・・などと思っていると、足下で起こっていることも見過ごしてしまうことになる。
牧師にカウンセリングの賜物があれば、カウンセリングという場において癒やしを目的として、深い扱いがあることは当然である。その時カウンセリーから個人的に先生と呼ばれても、それは自然で、それまで禁止はできない。理想は、牧師がその役目を果たし、また、そのような賜物を持っている信徒たちを訓練できることであろう。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
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