初期キリスト教世界を無限定に探るワクワク感がここに!
かつて神学生時代に授業でこんな試みをしたことがある。それは、ある一定のまとまった聖書箇所を抜き出し、文言の上に振られている小さな数字(節)を取っ払い、段落をなくして読む、ということである。いわゆる「白文」にして、その言葉をそのまま味わうという試みであった。
この効果は2つある。一つは、節や段落などによる区切りがないため、自分と聖書の言葉が直に向き合っているような、そんな新鮮な感動が得られること。もう一つは、あらためてじっくりと聖書を読み直すことで、「こういうものだ」という思い込みによって隠されていたさまざまな疑問が、装いも新たによみがえってくることだ。だからこそ、今から数十年も前のことなのに、昨日のように思い出す授業となっているのだろう。
本書『終末論の系譜―初期ユダヤ教からグノーシスまで』は、聖書学者の大貫隆氏(東京大学名誉教授)の書き下しである。「あとがき」によると、2010年から構想を練り始め、当初は新書として発刊することを目指し、15年から執筆を始めたという。しかしその後、企画そのものを変更し、分量を気にせず単行本として発刊することにしたという。そして、今年初めに筑摩書房から550ページを超える大著となって発刊されたのである。
大貫氏は「一般読者にとって読みやすいもの」を目指したと言うが、これがなかなか門外漢には難しい内容である。しかし「はじめに」でまとめられているように、「初期ユダヤ教の終末論がその後刻んだ歴史を、イエスと新約聖書を経て、後2世紀のキリスト教まで通史的にたどってみる」という本書の目的をつかむことはできる。そしてこの目的を達成するために、どうしても邪魔になる「アプリオリ(先験的)な限定性」を取っ払う必要がある。それは「正典としての聖書」という枠である。
終末論とは、神学の中で最も厄介なトピックスの一つであるといわれている。それは歴史的検証を徹底することで「絶対確かな終末論」に行きつくわけではなく、また多岐にわたる主張に整合性を与えることも難しいからである。さらに、旧新約聖書66巻のみを「正統」とする主張は、翻って正典に入らなかった書簡をいたずらに異端視したり、二次資料として価値をおとしめたりすることにつながるからである。
神学生時代に正典たる聖書を一時的ながら解体し、白文という形であらためて見直すことで、新鮮な驚きや疑問を得られたということを先に述べたが、まさに終末論に関する部分にこそ、この「新鮮さ」が常に付きまとっていたことを思い出す。
言い換えるなら、正典66巻だけではあまりにも限定された情報しか得られず、しかもそれを福音主義的な色合いで解釈することを義務付けられたことで、リアリティーを感じられる「終末論」からは程遠いものになってしまっているということである。もちろん本来「世の終わり」というとっつきにくい分野であるため、これを精査しなくても信仰者としてこの世で生きることにあまり支障は出ない。だから後回しにしても問題はないのだろうが、やはり牧師としてある程度心得ておきたいという願いはある。
本書は、上述したような閉塞感を打ち破る一冊である。そもそも大貫氏の研究において、福音主義的な解釈のような限定性はそもそも存在していないのかもしれないが、初期ユダヤ教の文書から旧約聖書続編、および新約聖書外典などにも論拠を見いだし、正典という限定性のない終末論を余すところなく語っている。
この効果は、単に聖書学者の知的欲求を満足させるだけではない。例えば、第2部「イエスと新約聖書の終末論」の第6章「『神の国は近づいた』―イエス」では、次のように聖書の根幹にかかわる問いが述べられている。
それでは、イエスは「神の国」を宣(の)べ伝えるに当たって、一体他のどのような伝承に依拠したのだろうか。それとも「神の国」は全くのイエスの独創、文字通り「無からの創造」であったのか。(中略)イエスの使うそのイメージの多くが初期ユダヤ教の中の特定の系譜、すなわち「上昇の黙示録」(P・シェーファー)の系譜に見られるイメージ群と重なっているのである。(123ページ)
「上昇の黙示録」とは、プリンストン大学のピーター・シェーファー教授が命名したもので、本書第3章で詳細に述べられている。
考えてみれば、イエスの時代に「正典」として限定されたものはあったにせよ、それは一部の限定されたものであり、明確な峻別は難しい状態にあったといえる。まして、キリスト教史的に言うなら、旧新約聖書の正典性が確定するのは、397年のカルタゴ教会会議においてである。だからイエスが一体どの文書から、どんな文脈で「神の国」という言葉を用いたのかを知るためには、どうしても「聖書以外」の文書に当たらなければならなくなる。しかし一般的には「聖書の中に聖書の真理は含まれる」という無限の円環構造にとらわれるあまり、例えば福音の根幹に関わる「イエスが説いた『神の国』」の本質すら、後世の教会制度の中で解釈され続けてきたのである。
本書はそういう意味で、無制限に文書を精査し、引用し、また仮説立案することを否定しない前提でつづられた学術的成果である。語られていることすべてを理解するには、前提となる専門知識がある程度は必要だろう。だが大筋を理解し、各々の分かる範囲で新たな着想や刺激を得るということなら、これほど適した書籍はない。
いろいろな学説や考え方を踏まえ、聖書の言葉を「白文」として向き合うことができるなら、新たな光が差し込むことになるのではないだろうか。いくらでも文章を読むことが苦にならない人にぜひお薦めしたい、重量級の「神学書」である。初期キリスト教の世界を、何の限定もなく旅するワクワク感をぜひ味わってもらいたい。
■ 大貫隆著『終末論の系譜―初期ユダヤ教からグノーシスまで』(筑摩書房、2019年1月)
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