三浦綾子さんが召された後、その死を悼む各界からの声が北海道新聞(1999年10月13日付)に掲載されました。
綾子さんが大ファンだった映画「男はつらいよ」シリーズの山田洋次監督は、綾子さんが召された年の6月に開かれた三浦綾子記念文学館1周年記念講演会で、綾子さんに「小説を書かなくとも生きていてくださるだけで値打ちがある。まじめに物事を考えている日本人のために長生きを」と声を掛けたエピソードを交えて語られていました。
将棋の羽生善治四冠(当時)は、三浦夫妻の人生に感銘を受けた一人で、旭川で将棋のイベントがあったときに夫妻に対面。「ご夫婦でいたわり合う雰囲気が、力を合わせて歩んでこられた人生を感じさせ、素晴らしいなと感動しました」と述べています。
同じ北海道出身の女流作家、原田康子さんは、「信仰の人、信念の人であり、尊敬する方を失った。弱いお体なのに、本当にバイタリティーにあふれ文学世界を築かれました」と。
長年親交があった元旭川市長で元官房長官の五十嵐広三さんは、「心の支えがなくなったような気持ちです。随分長い間、病気と闘ってこられ、何度も駄目だという中、奇跡を生むような形で、頑張ってこられました。本当に頑張って頑張って、みんなのために尽くしていただいた。そのことを感謝したい」と悼みました。
綾子さん死去のニュースは、道内外の主要新聞がトップ記事として大きく取り上げ、その文学的意義と業績、反響などを掲載しました。人生のどん底で自殺も考えていた15歳の時、綾子さんの小説『病めるときも』を読んで救われたというのは、中岡修身さん(地方公務員・41歳=当時)。「私は三浦さんの作品から、人間にとって一番大切なのは『いかに生きるか』であると教えられた。今日という日にはだれもが素人であるが、失敗を恐れず前向きに生きなさいと。三浦さんが神の元に召されはしても、私の心の中には、いつまでも生き続けるだろう」と投稿されました(北海道新聞99年10月16日付「読者の声」より)。
綾子さんの死は、関係者をはじめ、多くの三浦文学ファンに大きな悲しみをもたらしましたが、最も深い悲しみを体験されたのは、綾子さんと40年間共に歩み、口述筆記をして三浦文学を背後で支え続けた夫の光世さんでした。
光世さんが綾子さんと初めて出会ったのは、55年6月18日のことでした。札幌の菅原豊さんからはがきが届き、まだ旧姓の堀田であった綾子さんを見舞ってほしいと依頼されたのでした。菅原さんは、キリスト者の交流誌「いちじく」を発行しており、光世さんはその会員でした。当時、綾子さんは、肺結核と脊椎カリエスでギプスベッドに釘付けされ、自宅で療養9年目を迎えていました。これは後日分かったことですが、菅原さんは最初、光世さんを女性だと勘違いして見舞いを依頼したのでした。
光世さんは、しばらくためらっていましたが、初めて訪問したとき、綾子さんはギプスベッドに入って3年目、1年前には、綾子さんをキリストに導いた前川正さんを天に送り、失意と悲しみのどん底にありました。綾子さんは、初対面の光世さんを一目見て、亡き前川さんとあまりに似ていることに驚きました。その表情一つ一つに「似ている、似ている」と内心驚嘆し、かつ非常に清らかな印象を受けたと、『道ありき』に書いています。
光世さんは、3回目に訪問した同年8月24日、「神よ、私の命を堀田さんに上げてもよいですから、どうぞその御手をもって堀田さんをお癒やしください」と祈ったといいます。綾子さんは、この光世さんの祈りに驚愕(きょうがく)しました。
翌56年のある日、綾子さんは自作短歌を書き留めたノートを光世さんに手渡しました。光世さんは、綾子さんの前川さんへの挽歌(ばんか)に激しく心揺すぶられました。
妻の如く思ふと吾を抱きくれし君よ君よ還(かへ)り来よ天の国より
吾が髪と君の遺骨を入れてある桐の小箱を抱きて眠りぬ
以前に、腎臓結核の手術をして自身も病弱であった光世さんは、結婚というものに非常に懐疑的であり、新約聖書の第1コリント7章26~28節の聖句を短絡的に受け止め、「結婚すれば苦しみに遭う」と思い込んでいたようです。綾子さんには、病気が治ってほしいと切実に思っていたものの、結婚の対象としては考えていませんでした。一方、綾子さんは、前川さんと酷似している光世さんに、早い段階から好意を抱いていたようです。
ところがある日、光世さんは、綾子さんが亡くなる夢を見ます。愕然(がくぜん)として神に必死に祈りますと、「愛するか」という一つの言葉が脳裏に浮かびました。光世さんはこの一言で、自分に愛がないことを示され、もし綾子さんと共に生きていくのであれば、その愛を与えてほしいと切実に祈りました。これは、光世さんが綾子さんと結婚すると決断した瞬間でもありました。
その後、綾子さんは奇跡的に癒やされ、二人は59年5月24日、中嶋正昭牧師の司式で結婚式を挙げるに至りました。(三浦光世著『妻 三浦綾子と生きた四十年』より)
以来40年間、共に祈りつつ、苦楽を共にしてきた伴侶、綾子さんとの死別は、光世さんにとってあまりにも大きな悲しみでした。三浦夫妻は、本当に信仰によって結ばれた麗しい夫婦でした。二人が仲良く手を組んで町内を散歩している姿を幾度か目にしました。特に光世さんは、闘病中の綾子さんを献身的に介護されました。一方、綾子さんは、自分のような病弱な者を忍耐して待ち、妻として迎えてくれた光世さんに対して、終生、感謝と尊敬を忘れることはありませんでした。信仰の導き手として尊敬し、「光世さんは世界で一番の夫です」とよく口にされていました。
病弱で子どもがいなかった夫妻にとっては、互いがかけがえのない存在。それだけに最愛の伴侶を失った光世さんの悲しみは測り知れないものがありました。
葬儀は99年10月14日、旭川市神楽の旭川斎場で執り行われました。千人近い会葬者があり、私たち夫婦のすぐ斜め後ろにはドラマ「北の国から」などの脚本で有名な倉本聰さんも参列されていました。葬儀は、旭川六条教会の芳賀康祐(しが・やすすけ)牧師によって厳かに執り行われました。
葬儀が終了し、出棺の時に「また会う日まで」(讃美歌405番)が会葬者有志によって高らかに歌われたのが非常に印象的でした。
かみともにいまして
ゆく道をまもり
あめの御糧(みかて)もて
ちからをあたえませ
また会う日まで
また会う日まで
かみのまもり
汝(な)が身を離れざれ
光世さんは火葬場で遺体と別れるとき、「じゃあ、また会う日まで」と言葉を掛けました。召天1カ月後のインタビューでは、次のように語っています。
やはり自然の情として、悲しさ寂しさは何かにつけて波のように寄せ返してまいります。そのたびに神さまがいちばんよいことをしてくださったのだということを~伝道者の書に「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(3:11口語訳)とありますように~感謝しなければならないと思い返しては努めて感謝のお祈りをしています。(中略)やはり、天国での再会が最大の希望です。使徒信条に『罪の赦(ゆる)し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず』とあります。その「身体のよみがえり、永遠の生命」というものを、これまでもずいぶん思っていましたが、家内が逝ってからはさらにそのことを毎日のように思っています。胸に迫られるような感じで。(「百万人の福音」別冊「三浦綾子―じゃあ、また会う日までー」より)
最愛の綾子さんとの死別を経験し、深い悲しみの中にあった光世さんでしたが、やがて三浦文学を継承する中心的役割を担う器として表舞台に出なければならない超多忙の毎日が待っているのでした。(続く)
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