明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。新年といえば、私は新年に歌う讃美歌の368番(讃美歌21)が大好きです。特にその4節が好きです。
自分だけ 生きるのでなく
みな共に 手をたずさえて、
み恵みが あふれる国を
地の上に 来たらすような
生き方を 今年はしよう
コヘレト書をずっと学んできましたが、この書はここで歌われている「自分だけ生きるのでなく、みな共に手をたずさえて」という内容のことを、とても大切にしているように思えます。今回もその観点で学んでまいりましょう。今回、学ぶのは5章9節~6章2節ですが、この箇所は以下のような構造のインクルージオ(囲い込み)になっていると考えられます。
5章9~16節:不幸(ラーアー / רָעָה)なこと
5章17~19節:幸福(トーブ / טוֹב)なこと
6章1~2節:不幸(ラーアー / רָעָה)なこと
「不幸なこと」で囲い込むことによって、「幸福なこと」を浮かび上がらせていると考えられます。この場合の「幸福(トーブ / טוֹב)」という言葉は、本コラムの第3回でもお伝えさせていただきましたが、「空しさ(ヘベル / הֶבֶל)」という言葉の対極の言葉です。日本語訳聖書では「良い」「幸福」「満足」と翻訳されていますが、これらの言葉は原典ではすべてトーブです。ヘベルの対極にトーブがあることを鑑みますと、今回の「不幸(ラーアー / רָעָה)」は、「空しさ(ヘベル / הֶבֶל)」なのだと見ることもできましょう。実際5章9節と、6章2節には「空しさ(ヘベル / הֶבֶל)」の語があります。
最初にインクルージオの外側を見てみたいと思います。
5:9 銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。10 財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。11 働く者の眠りは快い、満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。12 太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。13 下手に使ってその富を失い、息子が生まれても、彼の手には何もない。14 人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。15 これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。16 その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない。
6:1 太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。2 ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。(5:9~16、6:1~2、新共同訳)
インクルージオの外側に当たる、この2つの部分で言われていることは、「『富』は不幸であり空しい」ということです。具体的に7つのことが語られます。
- 【5章9節】富はいくら追及しても満足することはできない。
- 【10節】富が増えれば擦り寄る人が増える。しかし、そこに真の人間関係はできない(眺めているだけ)。
- 【11節】富む者は労働をしないため、飽きるほど食べても満足が得られず熟睡できない。
- 【12~13節】富む者は富の管理が雑になる。そして富を失ったときに生活の術が分からない。
- 【14~15節】富を天国に持っていくことはできない。
- 【16節】富に伴うさまざまな心労で食事さえも落着いてできず、ストレスを溜める。
- 【6章1~2節】富が与えられてもそれを使うことができず、他人の手に渡ることがある。
このように見てまいりますと、旧約の時代とはいえ、富のありようは現代と同じです。もちろん富を一面的に否定するだけで、富のすべてを捉えることはできないと思いますが、コヘレトが伝えようとしているのは、富だけでは真の幸せは得られないということではないでしょうか。コヘレトは、これらの「富による不幸」にサンドイッチさせて、「幸せなこと」を書きます。
17 見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。18 神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。19 彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。(5:17~19、新共同訳)
ここで示されていることは、2章24~25節、3章12~13節ですでに明らかにされている、コヘレトが大事にしている「日々の食事を神からのプレゼントとして感謝していただくこと」ということこそが、幸福で良いことなのだということです。このテーマが示されるのは、これで3度目になるわけです。
しかし今回はこのテーマに続けて、「それが人の受けるべき分だ」(17節)、「自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている」(18節)と記されています。「分(ヘレク / חֵלֶק)」とは、本コラムの第10回で既にお伝えさせていただきましたが、ヘブライ語辞典を引いてみますと、「分配、分け前、割り当て、取り分」とあります。自分だけでなく、他の人と分配して得ることを意味する言葉です。今まで2度示された「日々の食事を神からのプレゼントとして感謝していただくこと」ということを、「自分だけでなく、他の人と共に分配すること」が大切だというのです。それが「神が心に与えられる喜び」(19節)なのです。
讃美歌368番で歌われている「自分だけ生きるのでなく、みな共に手をたずさえて」ということが、ここから示されているように思います。食べて飲むという神様からのプレゼントは、自分が受け取るだけではなく、他の人と分配する、すなわち分かち合うものなのです。分かち合って生きることが、「富による不幸」の対極にある「幸福なこと」なのだと思います。5章9節~6章2節は、インクルージオ構造によって、「富によるさまざまな不幸」の対極に「飲んで食べるという神からのプレゼントを、分かち合って共に生きる幸福」があるということを伝えているのです。(続く)
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