聖書は軒並み、創世記6:6、7にある2つの「ナーハム」を「悔やむ」という意味に訳してきた。しかし、神の「ナーハム」には、人に対する激しい「あわれみ」の思いしかなく、別の言い方をすれば、人に「平安」を与えようとする思いしかなかった。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)
つまり、神の「ナーハム」には「悔やむ」という思いなど毛頭ない。しかし、そのように訳されてきた。ならば、イエスの時代のキリスト者の「聖書」、すなわち七十人訳聖書は、それをどのように訳していたのだろう。創世記6:6の「ナーハム」から見ていくことにする。
【七十人訳聖書の訳】
(1)創世記6:6の「ナーハム」
新改訳聖書は、創世記6:6の「ナーハム」を「悔やむ」という意味に訳している。
それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ(ナーハム)、心を痛められた。(創世記6:6)
しかし、七十人訳聖書を見ると、どの版も「エンテュメオマイ」[ἐνθυμέομαι](思いめぐらす)という意味に訳し、「悔やむ」という意味には訳していないのである。どの版も同じに訳しているので、この訳が七十人訳聖書の「祖型」であったことが分かる。では、「エンテュメオマイ」の意味を詳しく見てみよう。
「エンテュメオマイ」とは、「エン」[ἐν]と「テュモス」[θυμός]から出来た合成語で、「エン」は「内に」という意味で、「テュモス」は「激しい感情の爆発」を意味する(参照:織田昭編 『新約聖書ギリシア語小辞典』教文館)。従って、「エンテュメオマイ」とは「思いめぐらす」という意味ではあるが、そこには「激しい感情の爆発」がある。ヘブライ語の「ナーハム」には“呼吸が乱れるほどの精神状態”、すなわち 「激しい感情の爆発」が含まれていたが、まさにこの言葉はそれを表している。
そうした「激しい感情の爆発」は、多くは「怒り」を意味するので、「テュモス」は「怒り」と訳される。そこで思い出してほしいのが、前編で述べた「神の怒り」である。それは人への愛から、人を苦しめている罪に対して向けられるものであった。つまり、「エンテュメオマイ」という言葉を神が使う場合、そこには人を苦しめている罪への「怒り」があり、どうすれば人を苦しみから贖(あがな)い出せるかと、「思いめぐらす」となる。従って、神がこの言葉を使う場合、それは人に対する真実な「あわれみ」を意味するので、これは実に上手い言葉に訳されている。
いずれにせよ、ここで重要なことは、神の霊感が働いた七十人訳の訳者は、この箇所の「ナーハム」を「悔やむ」という意味には訳さなかったということだ。ギリシャ語には「メタメロマイ」[μεταμέλομαι]という言葉があり、それはまさしく「悔やむ」ということを意味するが、そのようには訳さなかったのである。この箇所の「ナーハム」が「悔やむ」という意味で使われていたのであれば、迷うことなく「メタメロマイ」と訳していたことだろう。しかし、神の霊感の下では、そのようには訳されなかった。このことが、最も重要な点となる。
このように、七十人訳聖書の訳者は神の霊感を受け、創世記6:6の「ナーハム」を「思いめぐらす」(エンテュメオマイ)という意味に訳し、「悔やむ」という意味には訳さなかった。それはつまり、アダムは堕落などしていなかったということであり、人は「ダメな者」ではなく、「良き者」であったということを意味する。神は人が苦しんでいるのをご覧になったので、“呼吸が乱れるほどの精神状態”になり、それは人を苦しめる罪に対する激しい「神の怒り」となり、神は安堵しようと、人への激しい「あわれみ」を「思いめぐらせた」のであった。そして、大洪水の決断に至った。では、創世記6:7の「ナーハム」を見てみよう。
(2)創世記6:7の「ナーハム」
新改訳聖書は、創世記6:7の「ナーハム」を「わたしは、これらを造ったことを残念に思う」と訳し、新共同訳は、「わたしはこれらを造ったことを後悔する」と訳し、新改訳2017は、「これらを造ったことを悔やむ」と訳している。ならば、七十人訳聖書はどう訳しているのだろう。
実は、この箇所は写本によって訳が異なる。七十人訳聖書(ゲッティンゲン版七十人訳:Septuaginta Vetus Testamentum Graecum Auctoriate Academiae Scientiarum Gottingensis editum)の異読欄を見ると、写本は4種類の訳に分けられる。1つ目は、最初の「ナーハム」の訳と同じ「エンテュメオマイ」[ἐνθυμέομαι](思いめぐらす)であり、2つ目は「テュモー」[θυμόω](激怒する)であり、3つ目は「メタメロマイ」[μεταμέλομαι](後悔する)であり、4つ目は「メタノエオー」[μετανοέω](心を変える)である。ただし、最後の「メタノエオー」と訳した写本は1つしか見つかっていない。
この「ゲッティンゲン版七十人訳」とは、現存する七十人訳に関する写本のすべてを照合するという気が遠くなる作業を通して作成されている。そして、どの箇所が異なる訳になっているかを事細かに記している。「ゲッティンゲン版七十人訳」は1908年から編集が始まり、21世紀になった今でも作業は続いている。そのため、完成した書巻から順次出版されてきた。この創世記だけでも、140近くある写本を基に、一語一語を調べ上げられている。その中、創世記6:7の「ナーハム」に関しては4つの異なる訳の写本を見つけ出した。彼らはその中から、「テュモー」を七十人訳の「祖型」として採用している。しかし、その結論は早計である。その理由は、このまま読み進めてもらうと分かる。
では、この4つのうち、どの訳が「祖型」であるかを考えてみよう。始めに、「祖型」であることが疑わしい訳から排除する。その1つ目は、「メタノエオー」(心を変える)である。というのも、この訳は後述するが、1人の教父が著書で1回だけ引用しているにすぎないからだ。つまり、数多く残っている七十人訳聖書そのものの写本にはまったくない。それゆえ、「祖型」であることの信憑性に欠けるので排除できる。
となれば、神が言われた「ナーハム」を「悔やむ」という意味に訳した七十人訳聖書は、まったくもって皆無であったことになる。ところが、不思議なことに、現在私たちが使っている日本語訳の聖書は、ことごとく「悔やむ」という意味に訳している。
次に排除できる訳は、「メタメロマイ」(後悔する)である。この訳が最初に登場する写本は、10世紀に書かれた、写本番号「121」の「Venice, Bibl. Marc. Gr. 3. X. Century.」であり、時代としては新しい。しかも、「メタメロマイ」の記載が欄外記載(121mg)になっている。それゆえこの訳は、イエスの時代の「祖型」ではないと判断できるので排除できる。
以上の考察から、「祖型」の可能性がある訳は「テュモー」(激怒する)と、「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)の2つである。では、どちらがイエスの時代に使われていた七十人訳聖書の訳なのだろう。神の「ナーハム」の土台には人への愛から、人を苦しめる罪への「怒り」が含まれるので、「テュモー」でも良さそうな気はするが適切ではない。なぜなら、神がそうした“呼吸が乱れるほどの精神状態”(罪への怒り)から安堵(ナーハム)しようと思えば、まずはどうすれば人を罪から贖い出せるかと、「思いをめぐらせる」からだ。ゆえに、「エンテュメオマイ」という訳の方がはるかに適切である。というより、「激怒した」と訳すと、人はどうしても大洪水を罰として受け止めてしまうので、この訳は適切とはいえない。
しかし、一般に七十人訳として広く知られているのは、5世紀に書かれたアレクサンドリア写本であり、その写本では、「テュモー」(激怒する)と訳されている。これ以上古い主な七十人訳というと、4世紀に書かれたヴァチカン写本とシナイ写本があるが、残念ながら、そこには今回知りたい創世記の箇所が欠如している。他に、断片として見つかった2~3世紀の写本(写本911:Berlin Staatl.Mus.,Fol.66.)には創世記6:7があったが、その訳も「テュモー」となっている。そうなると、「祖型」は「テュモー」ということになるのだろうか。
実は、これだけで答えを出すことは早計である。古い直接の七十人訳聖書の写本がなくとも、古い写本の中身を知る方法があるからだ。それは、教父の著書で引用された聖句を見ればよい。私もそうだが、聖句を引用して文書を書くことが多々あり、その場合は、一字一句正確に引用する。従って、教父が引用した聖句を見れば、当時使われていた聖書の訳を知ることができる。それゆえ、5世紀以前に書かれた教父の著作の中に、創世記6:7の引用聖句があれば、そこからアレクサンドリア写本よりも古い七十人訳を知ることができるのである。
では早速、この箇所の聖句を引用した教父の著作を、「ゲッティンゲン版七十人訳」の異読欄を参照に見ていきたい。ただし、その異読欄には疑わしい記載があり、発行元に確認したところ、それは誤りであったという返事を頂いたので、これから述べる内容は「ゲッティンゲン版七十人訳」の異読欄の誤りを訂正した内容となっている。では、古い順に教父の引用を見ていこう。
(3)「祖型」を探る
■ フィロン(BC25年ごろ~AD45/50年ごろ)
創世記6:7の聖句引用は、古くはアレクサンドリアのフィロンのものが残っている。彼は、イエスの時代に生きたユダヤ人哲学者で、著名な聖書注解者であった。後の教父に大きな影響を与えた人物でもある。とはいえ、彼はその生涯をアレクサンドリアで送ったので、キリスト教を直接知ることはなかった。
そのフィロンは、著書の中で七十人訳を非常に高く評価し、その訳には神の霊感が働いたと言い切っている。実際、彼の机の上には七十人訳聖書しか置かれていなかった。フィロンは、後にキリスト教徒の専用「聖書」となっていく七十人訳を、実は当時、誰よりも先に神の言葉として支持していたのである。そうした意味では、彼はキリスト教に直接触れる機会こそなかったが、教父の一人として見なすことができる。
そのフィロンの書いた「神の不動性」(創世記6:4~12の注解書)を見ると、創世記6:7の「ナーハム」は「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)という訳になっている。ところが、同じ「神の不動性」の別の写本では、「テュモー」(激怒する)となっている(参照:L.Cohn & P.Wendland 「アレクサンドレイアのフィロン全集Ⅱ」Opera, Berlin 1896ff. 68ページ8行目と欄外)。同じ著書であるにもかかわらず、その著書の写本によって異なっている。
原因として考えられるのは、フィロンの著書が時代の中で書き写されていく際、写す者が自分の使っている七十人訳と違っていたので修正したのではないかということだ。しかし、今となっては、どちらがフィロンの引用した訳であったかは知る由もない。そのため、フィロンの著書だけでは「祖型」の判断はできないので、その後の教父の引用も探ってみよう。
■ オリゲネス(185年ごろ~254年ごろ)
オリゲネスが編さんした聖書研究テキストの中にも、創世記6:7を見ることができる。彼は初代教会最大の神学者で、キリスト教の教義学を確立する。彼が編さんした聖書研究テキストは「ヘクサプラ」と呼ばれ、ヘブライ語聖書と、それを訳した異なる訳が比較できる形になっている。そこで取り上げられた異なる主な訳は、キリスト教徒が使う七十人訳に反発したユダヤ教徒たちが、自分たちで作った異なる3つのギリシャ語訳と、オリゲネスが見つけたとされる古い時代の七十人訳である。この七十人訳は「ヘクサプラの七十人訳」と呼ばれ、欠落部分やおかしいと思われる箇所は彼の修正が加えられている。
オリゲネスが、こうした「ヘクサプラ」を作った背景には、当時すでに異なる訳の七十人訳聖書が幾つも出回っていたという事情があった。しかも、ユダヤ教徒からは、そうした七十人訳聖書に対する批判が絶えなかった。そうしたことから、自分たちの「聖書」の権威を確かなものにする必要があり、20年もの歳月を掛け「ヘクサプラ」が作られた。
前置きが長くなったが、「ヘクサプラの七十人訳」こそ、イエスの時代に最も近い七十人訳聖書の写本で間違いない。ただし、638年イスラム教徒のパレスチナ侵入の際、多くの部分は失われ、現存するのはわずかな断片しかない。実は、そのわずかな断片の中に創世記6:7の「ナーハム」がある。それを見ると、「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)と訳されているのだ(参照:Frederick Field編 『Origen Hexapla』Published 1875 by Clarendon Press in Oxford. 23ページ)。では、その後の教父の引用を見てみよう。
■ ヨアンネス・クリュソストモス(344年ごろ~407年)
ヨアンネス・クリュソストモスが、創世記6:7の聖句を2度引用している。彼は、その時代のキリスト教界において最も有名な説教家であった。彼は、コンスタンティノープル大主教も務めた。その彼が引用した創世記6:7を見ると、「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)という訳になっている(参照:ミーニュ編 『ギリシア教父全集』の47~64巻にある「ヨアンネス・クリュソストモス全集」項目Ⅶの192欄)。しかも彼はその引用の際、他の訳を排除し、この箇所は「エンテュメオマイ」であることを強く訴えている。
そしてもう1カ所の引用では、「メタノエオー」(心を変える)という訳になっている(参照:ミーニュ編『ギリシア教父全集』の47~64巻にある「ヨアンネス・クリュソストモス全集」項目Ⅵの402欄)。ただし、こちらの引用に関しては、神が人間に合わせた言い方であって、神にふさわしい表現ではないとしている。そうである以上、この訳は「祖型」ではない。事実、この訳が記載された七十人訳聖書の写本は、現在のところ1冊も残っていない。ここでの引用だけである。いずれにせよ、ヨアンネス・クリュソストモスも先の教父と同じように、「エンテュメオマイ」という訳を「祖型」とした。では、その後の教父たちの引用を見てみよう。
■ キュリロス(376年~444年)
アレクサンドリアのキュリロスが、その著書で引用している。彼の引用も「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)となっている(参照:シュテーリン編『ギリシア・キリスト教著作家全集』の中の「アレクサンドレイアのキュリロス全集」Ⅱ巻の56ページ)。彼は、アレクサンドリアの総主教を務めた。それだけ重要な立場にいた人物が引用した訳である以上、やはりこの訳がこの箇所の七十人訳聖書における「祖型」と考えられる。
■ テオドレトス(395年ごろ~457年ごろ)
さらに同時代、彼と論争したキュロスのテオドレトスも、著書の中で創世記6:7の聖句を2度引用している。そのいずれもが「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)である(参照:ミーニュ編『ギリシア教父全集』の80~84巻にある「キュロスのテオドレトス全集」項目Ⅰの101欄、156欄)。彼は、キュロスの主教を務めた有名な神学者であった。学者であった以上、聖句の引用には慎重を期したことは疑う余地がない。その彼が「エンテュメオマイ」という訳を引用したのであるから、4世紀から5世紀にかけての七十人訳聖書は、「エンテュメオマイ」の訳の版が正当とされていたことは明らかである。
このように、一般に七十人訳として広く知られている、5世紀に書かれたアレクサンドリア写本では「テュモー」(激怒する)となっているが、それ以前の教父たちは、「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)という訳を引用していた。従って、創世記6:7の「ナーハム」が、「エンテュメオマイ」と訳されていたことは確実である。イエスの時代に生きたフィロンから、5世紀に活躍するキュロスのテオドレトスまで、ことごとく教父たちは「エンテュメオマイ」という訳を使っていた以上、この訳こそ七十人訳聖書の「祖型」であり、イエスの時代に使われていた「聖書」であったことは疑う余地がない。
これで、人は「堕落した者」ではなかったことが確定したと言いたいところだが、話はそう簡単ではない。というのも、アウグスティヌス(350~430)は七十人訳聖書における創世記6:6の「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)という訳を、まったく違った意味に解釈したからである。一言で言うと、神が思いめぐらしたのは、罪を犯した人に対し怒り、罰を与えるためであったとした。つまり、人は「堕落した者」であり、神の怒りを買う者であったから、神はどんな罰を与えようかと思いめぐらしたのだとした(『神の国』第15巻25章)。
そうなると、いくら「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)と訳されようが、この言葉をアウグスティヌスと同じように解釈するのであれば、やはり、人は「堕落した者」になってしまう。では、イエスの時代の人たちは、この「エンテュメオマイ」をどのように受け止めていたのかを考えてみたい。
(4)「エンテュメオマイ」の解釈
「エンテュメオマイ」[ἐνθυμέομαι]という言葉は、先に説明したように合成語になっていて、「エン」[ἐν]と「テュモス」[θυμός]から出来ている。「エン」は「内に」という意味であり、「テュモス」は「激しい感情の爆発」という意味である。
この「激しい感情の爆発」である「テュモス」は、もともとは「動かされるもの、動かすもの」を意味していた(参照:『ギリシア語 新約聖書釈義事典Ⅱ』教文館 203ページの2)。そこから、「自分を突き動かす強い感情」を表すようになった。多くの場合、そうした感情は「激しい怒り」であるため、一般に「テュモス」は、「怒り」「憤り」と訳されるようになった。ゆえに、合成語の「エンテュメオマイ」は、怒りから思いをめぐらせているというように解される。
無論、神の怒りは人を苦しめる罪に対するものであって、それは人への「愛」なので、それでもよいということになる。だが、アウグスティヌスは、そのようには取らなかった。神の怒りを人への敵意として取り、人への罰を思いめぐらせたとした。そこで、もう少し合成語のことを考えてみよう。
合成語というのは、いったん言葉が出来上がると、それが1つの言葉として一人歩きする。つまり、原義が失われていくのである。ゆえに、原義がどうであったかはあまり当てにならない。それよりも、「エンテュメオマイ」がどのような文脈で使われているかが重要になる。人によってはこの言葉を「怒り」からではなく、愛する人のことを思って、「思いめぐらす」という人もいるからだ。実際、聖書には次のような用例がある。この用例はマリヤの夫、ヨセフの妻に対する思いをつづっている。
彼がこのことを思い巡らしていたとき(エンテュメオマイ)、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」(マタイ1:20)
ここでヨセフは、妻となるマリヤが身重であることを知り、どうすればよいかと思いを巡らせている(エンテュメオマイ)。この場合の思いを巡らすは、マリヤが結婚する前から身重であったことを知ったので、彼女に対して「激しい怒り」を抱き、どうすれば彼女を罰せられるかと、思いを巡らせたのだろうか。とんでもない。ヨセフは彼女を心から愛していたので、彼女が身重であることを知ったとき、彼女が人々の前でさらし者になることを何としても避けたいと思い、どうすればさらし者にならずに済むかと、思いを巡らせたのである。そのことは、この手前の御言葉を読めば分かる。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(マタイ1:19)
ヨセフの「エンテュメオマイ」に秘められた思いは、紛れもなく彼女への「愛」であった。そこには、彼女に対する「怒り」はまったくなかった。では、もう1つの事例を見てみよう。
イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えている(エンテュメオマイ)のか」(マタイ9:4)
ここでは、悪いことを「考えている」に「エンテュメオマイ」が使われている。悪いことを考えていたのは律法学者たちであったが、彼らは、イエスが中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦(ゆる)された」(マタイ9:2)と言われたのを聞き、「この人は神をけがしている」(マタイ9:3)という悪い考えを持ったのである。この場合の律法学者の「エンテュメオマイ」は、もちろんイエスへの「激しい怒り」であった。
新約聖書にはこの2つの事例しかないが、この2つの事例からも分かるように、「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)の土台となる「自分を突き動かす強い感情」は、原義から推測すると「怒り」となるが、「愛」の場合もあるということだ。イエスの時代の人たちは、少なくとも「エンテュメオマイ」という言葉をそのように使っていた。
いずれにせよ、「エンテュメオマイ」に込められた思いは文脈で決まる。ならば、創世記6:6、7の「エンテュメオマイ」に込められた神の思いを、文脈から探ってみよう。ただし、その文脈は同じ七十人訳聖書で見なければ意味がない。それを見ることで、神の霊感で書かれた七十人訳聖書が、この箇所の「エンテュメオマイ」にどのような意味を込めていたかが分かる。
(5)創世記6:5の七十人訳
新改訳2017は、神が「ナーハム」に至った理由を次のようにつづっている。
【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ(ナーハム)、心を痛められた。(創世記6:5、6、新改訳2017)
それによると、「悪」が増大し、人の心が「悪」に傾くのを神がご覧になり、「ナーハム」に至ったという。この訳では増大した「悪」も、人の心に生じた「悪」も同じに訳されているので、人が悪人であるから神は激怒し、「ナーハム」に至ったとなる。これでは、「ナーハム」が「悔やむ」と訳されても仕方がない。ところがこの箇所の「悪」を、七十人訳聖書は次のように訳している。
「地上に人の悪が増大し」の「悪」はヘブライ語の「ラーアー」[רָעָה]で、意味は「悪、害、災い」である。それを七十人訳聖書は、「カキア」[κακία](悪、悪徳、不道徳)という意味に訳している。
次に、「いつも悪に傾く」の「悪」はヘブライ語の「ラ」[רַע]で、意味は「悪、悪人、悪い、災い」であるが、それを七十人訳聖書は「ポネーロス」[πονηρός](苦痛の激しい、苦しい、つらい)という意味に訳している。実はこの訳にこそ、この後の「エンテュメオマイ」に込められた意味を説き明かすカギがある。では、「ポネーロス」の意味をさらに深く見ていこう。
最初に知るべきことは、日本語でもそうだが、「悪い」という言葉は異なった意味で使われるということだ。例えば、健康だった人が病気になれば、その状態を指して「悪い」という。例えば、誰かが人に危害を加えるようなことをすれば、その者を指して「悪い」ともいう。つまり、「悪い」といっても、その意味は使われる場面によってまったく異なるのである。ヘブライ語の「悪い」(ラ)も、これと同じである。場面によって意味が変わる。ゆえに、ここでは「ポネーロス」と訳された。
「ポネーロス」とは元来、「労苦によって圧迫されている」場面を言い表す言葉で、第一に「苦痛の激しい」「苦しい」「つらい」「悪性の」という意味になる。第二に「悪い」「役に立たない」などの意味もある(参照:織田昭編 『新約聖書ギリシア語小辞典』教文館)。この「ポネーロス」の語源となった言葉は「ポネオー」[πονέω]で、「労苦する」「骨を折る」「苦しむ」「苦痛を感ずる」「悩む」「病気を患う」などの意味がある(参照:古川晴風編著 『ギリシャ語辞書』大学書林)。
従って「ポネーロス」は、人が圧迫され、苦しんでいる姿を意味する。この言葉は、人が苦しんでつらい状況にある、という意味での「悪い」を意味する。病気を患うと「自分は悪い」というが、そういう意味での「悪い」であって、悪人という意味での「悪い」ではない。こうした「悪い」の違いは、イエスの次の言葉を見ればよく分かる。
悪い木は 悪い実を結びます。(マタイ7:17)
日本語の聖書は、悪い木の「悪い」も、悪い実の「悪い」も同じ訳している。しかし、イエスは全く異なる言葉を使われた。悪い木の「悪い」には「腐っている」という意味の「サプロス」[σαπρός]を使い、悪い実の「悪い」は、先に述べた「苦痛の激しい」という意味の「ポネーロス」[πονηρός]を使われたのだ。ここでイエスは、「腐っている木は、苦痛の激しい実を結びます」と言われたのである。
では、「腐っている木」とは何を意味するのだろうか。それは、神との関係が腐っているという意味であり、ここではキリストを信じない人たちを指している。そういう人たちの生き方は、見えるものに「安心」と「安全」を求めるしかなく、見えるものを互いに奪い合うという苦痛に見舞われてしまう。そのことをイエスは、「苦痛の激しい(ポネーロス)実を結びます」と言われたのである。イエスは、こうした罪人を大いにあわれまれた。それは、彼らが「苦痛の激しい」中にいたからにほかならない。
このイエスの言葉からも分かるように、神が人に対して「ポネーロス」という言葉を使うとき、それは罪で苦しんでいる人たちということであり、そこには罪の苦痛に見舞われた者たちへの「あわれみ」が込められている。日本語の訳からでは、そうした神意はまったく見えてこないが、ギリシャ語で読むと、見えなかった神意も見えてくる。同様に、ヘブライ語の聖書からでは見えなかった「悪い」の神意が、七十人訳聖書の「ポネーロス」を通して明らかになった。では、その箇所を意訳してみよう。
神は、地上に罪(悪)が増大し、彼らの心が来る日も来る日も、苦しんでいくのをご覧になった。(創世記6:5、七十人訳からの私訳)
そして七十人訳聖書は、この続きの「ナーハム」を「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)と訳した。このことから、「エンテュメオマイ」に込めた意味が分かる。それは、こうだ。
神は人の苦しみを、ご自分の苦しみとして受け取られる。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」(イザヤ63:9)。その愛ゆえに、何としても人をあわれみ、贖おうとされる。「その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(イザヤ63:9)。昔からずっと、そうした神であったから、神は「彼らの心が来る日も来る日も、苦しんでいくのをご覧になった」とき、“呼吸が乱れるほどの精神状態”になり、どうすれば彼らを贖い出すことができるかと、思いをめぐらされた(エンテュメオマイ)のである。つまり、「エンテュメオマイ」に込められていたのは、人への「あわれみ」であった。
その「あわれみ」は、神を拒否し続ける者たちの苦しみを、このまま放置し続けてはならないという思いであり、神を信じるノアの家族を悪の手から救い出さなければならないという思いであった。そうしたことを「思いめぐらし」(エンテュメオマイ)、大洪水の決断に至ったのである。
これこそが事の真相にほかならない。それはまさに、病気で苦しむ我が子を思う親の選択であって、悪人に激しい「敵意」を覚え、彼らに罰を与えようと思いをめぐらせたのではない。そこには「罪人には罰」という思いはまったくなかった。なぜなら、人は「堕落した者」ではなく、神の目には高価で尊い「良き者」であったからだ。その事実を、七十人訳聖書からは知ることができるのである。
この社会は悪いことをすれば必ず罰を受け、「罪人には罰」という経験を積み上げていく。そのため、どうしても「ノアの箱舟」の話を、神が人の罪を罰した話だと思ってしまい、創世記6:6、7の「ナーハム」を「悔やむ」という意味に訳してしまう。しかし、その訳はイエスの時代や教父の時代に採用されていた聖書の訳とは明らかに違っていた。当時の訳は、以下のようになっていた。
神は、地上に罪(悪)が増大し、彼らの心が来る日も来る日も、苦しんでいくのをご覧になった。それで神は、地上に人を造ったので思いをめぐらし、考え抜いた。そして、神は言われた。「わたしが造った人を地の面から取り除こう。人から家畜に至るまで、はうものから空の鳥に至るまで。というのは、これらを造ったことを思いめぐらしたからだ」(創世記6:5~7、七十人訳の私訳)
この訳だと、「ノアの箱舟」は神が人をあわれみ(思いをめぐらし)、人を助けた話になる。その解釈が正しいからこそ、聖書は「ノアの箱舟」を神がノアの家族8人を保護した話とし、「・・・義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです」(2ペテロ2:5、新共同訳)、神の「救い」を示した「型」であったと解説した。「・・・そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」(1ペテロ3:20、21)。「罪人には罰」を示した「型」とは教えなかったのである。これは、まことに驚愕(きょうがく)の事実ではないだろうか。
しかしそうなると、旧約時代、なぜに神は罪を犯した者に「罰」を与えたのかと思うかもしれない。そこで、そのことにも触れておく必要がある。
(6)罰の目的
神はモーセを通して律法を与え、それに従わなければ厳しい罰で臨むとした。
あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。(出エジプト20:7)
神がそうした処罰付きの厳しい律法を与えた意図は、結論を言うと、罪に気付かせ、神に助けを乞うようにさせるためであった。ゆえに、神が言われた罰(わざわい)は、誰であれ神に立ち返れば赦されるものであった。
もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。(エレミヤ18:8、新改訳2017)
神に立ち返れば赦されるのであれば、それはもう罰とは呼べない。赦しを乞えば犯した罪の記録が抹消され、罰を受けずに済むという話が、一体どこの世界にあるというのだ。これはもう、人の考える「罰」の概念とは明らかに異なる。
人の考える「罰」とは、違反行為や過ちに対する制裁である。そのため、違反の事実があれば何があろうとも罰からは逃れられない。反省すれば罰の減免はあっても、違反行為そのものの記録が消されることはない。私は若い頃、スピード違反で捕まったことがあり、必死に警察官に赦しを乞うたが、どんなに反省しようとも違反した事実は取り消されず、結局、罰金を支払うことになった。これが、この世界における「罰」である。ところが神は、人が神に立ち返れば罰はないと言われる。罰を「思い直す」と言われる。
彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。(エレミヤ26:3)
つまり、神に立ち返るのであれば罪を「赦す」と言われるのだ。
ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。(エレミヤ36:3)
神における「赦す」とは、罪の記録をすべて抹消することを意味する。罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださるのである。
たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)
罪を犯した過去の記録が抹消されれば、罰を下す根拠は失われてしまう。そうなればもう、罪を責めようがない。これが、神における「罰」の中身となる。
このことから、神が「罰」を与えると言われるのは、ただ神に立ち返らせるための警告にすぎないことが分かる。従って、罰が伴う律法を人に与えた目的は制裁ではなく、キリストへ導くための養育係であったということになる。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。(ガラテヤ3:24)
このように、神の思いは一貫して人への「あわれみ」であって、「罪人には罰」という考えは毛頭ない。では、総括しよう。
【総括】
(1)創世記6:6、7の神意
モーセの時代、神が“呼吸が乱れるほどの精神状態”から安堵(あんど)しようとする際に生じる思いを人に伝えようと思えば、「ナーハム」という言葉を使うしかなかった。それでヘブライ語の聖書は、人を造られたことを神は「ナーハム」したと書いた。だがこれだけだと、悔やんだという意味に解されても仕方がない。
そこで神は、神の「ナーハム」が誤解されないよう、その言葉を使ったあとに「永遠の契約」を立て、「ナーハム」に込められていた思いは「あわれみ」であったことを明らかにされた(創世記9:11)。まことに、ヘブライ語で書かれた時代は言葉の制約も多かったのである。
だが、言葉は時代とともに進歩し、より豊かな表現が可能になっていく。イエスの時代にはすでに、より洗練され進化したアラマイ(アラム)語が母国語になっていた。アラマイ語はヘブライ語ほど詩的ではないが、より正確に表現することのできる言語であった。
しかしアラマイ語は、当時のヘレニズム社会においては民族語にすぎず、公用語はギリシャ語であった。そのギリシャ語も、やはり創世記が書かれた時代のヘブライ語に比べると、はるかに豊かな表現のできる言葉であった。それゆえ、ヘブライ語で書かれた聖書をギリシャ語に翻訳すれば、それまでは言葉の制約から言い表せなかった神意も、容易に言い表せるようになった。
ただし、誤った神意を言い表す可能性も起こり得るため、訳す際は必ず神の霊感を必要とした。実際、イエスの時代に「聖書」として使われていた七十人訳は、神の霊感によって訳された。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(2テモテ3:16)。
こうして創世記6:6、7の「ナーハム」は、神の霊感によって「エンテュメオマイ」と訳され、「ナーハム」に込められた神の思いは人を造ったことを悔やんだということではなく、人を何としても助けたいという「あわれみ」であったことが明らかになった。ヨセフは、妻となるマリヤが身重であることを知り、彼女に対する「愛」から思いをめぐらせたが(エンテュメオマイ)、それと同じであった。神も人に対する「愛」から思いをめぐらし、大洪水という究極の選択に至ったのであった。神は人を造ったことを悔やんで、人を滅ぼしたわけでは決してなかった。そうした神意が、七十人訳聖書からは見えてくる。
さらに言うと、もし神が言われた「ナーハム」が「悔やむ」という意味であったのなら、神は「ナーハム」を「メタメロマイ」[μεταμέλομαι](悔やむ)と訳させていた。しかし、そのようには訳させなかった以上、「ナーハム」に込められた神の思いは「悔やむ」ではなく、「あわれむ」であったことは疑う余地もない。
このように、創世記6:6、7の神意は人に対する神の「あわれみ」である。人を造ったことに対する後悔の念はまったくない。にもかかわらず、今日の聖書はこの箇所の「ナーハム」を、「悔やむ」という言葉に訳してしまう。しかし、そのように訳してしまうと、人は「堕落した者」になったので神は激怒し、滅ぼすという罰を下されたことになる。すると人は、キリストを信じて救われても、自分の罪が一向に改善されなければ神は救ったことを悔やみ、救いを取り消されるのではないかと怯えるようになる。
これでは、罪に苦しむ人をあわれみ、ご自分のいのちさえ惜しまなかった神の愛に覆いが掛かってしまう。実際そうなってしまい、人は旧約時代における神は恐ろしく、新約時代における神は愛に満ちているとしてしまった。だが、神の思いは昔も今もまったく変わることはないのだ。
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)
キリストが十字架で示された罪人へのあわれみこそ、神の変わらない思いである。そうである以上、この箇所は「悔やむ」と訳すべきではない。この箇所の「ナーハム」の意味を七十人訳聖書が明らかにした以上、それに沿って、神の「あわれみ」が伝わるような日本語に訳すべきである。少なくとも、イエスの時代に使われていた「聖書」では、そのように訳されていた。神が人を造られたことを後悔した、などという意味ではなかった。つまり結論は、人は「堕落した者」ではなく、「良き者」なのである。
(2)人は「良き者」
誰もが日本語の聖書で大洪水の話を読んだとき、アダム以来、人は「堕落した者」になり、「ダメな者」になったと思ってしまった。そのため、「ダメな者」を「良き者」にするのが福音だと信じ、人の罪を見ては「ダメな者」と言って裁き合ってきた。しかし、見てきたように、人は「堕落した者」ではなかった。人は「良き者」であった。「良き者」として造られ、良い行いができる者であった。
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)
御言葉は、人は「良き者」として造られたと証言している。そうであれば、良い行いができない罪人の姿は、「ダメな者」ではなく「病気」ということになる。「良き者」が病気になっているという扱いになるのであって、「堕落した者」の姿ではないとなる。一体誰が、健康であった者が健康でなくなったからといって、「ダメな者」になったと言うのか。その場合は「病人」になったと言うのであって、その者に対して、早く元気になってほしいと思うのではないのか。神もまったく同じである。
神が罪人である私たちに抱かれる思いは、まさしく病人をいたわる思いにほかならない。なぜなら、神は人を「良き者」として造られたので、何があろうとも人は「良き者」に変わりがないからだ。それでイエスは、罪人となった私たちを「病人」に重ねられた。
医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)
しかし、創世記6:6、7の既存の訳では、神が人を造られたことを後悔したことになり、罪人としての人の姿は「病人」ではなく、「堕落した者」になってしまう。生きる価値もない、「ダメな者」になる。そこで神は、こうした誤解を避けるために、神の人への思いは「あわれみ」であることを、事あるごとに語ってこられた。
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、」(出エジプト34:6)
あなたの神、【主】は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。(申命記4:31)
彼らの心は神に誠実でなく、神の契約にも忠実でなかった。しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押さえ、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。(詩篇78:37、38)
わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。(ホセア11:8)
神は昔から、「罪人にはあわれみ」を語ってこられた。その思いは変わることがないので、十字架の贖いを実行された。まことに、人を罪から贖い出したいというのが神の本音であって、罪に対し「わざわい」を与えるというのは、神の本音ではない。ゆえに神は、「あなたがたにわざわいを与える」(エレミヤ25:6)と言われた後、次のように語られた。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)
さらに神は同じエレミヤ書において、その本音を「新しい契約」の中でこう述べられた。
──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(エレミヤ31:34)
そしてイエスは、私たちの罪を背負い十字架に架かられた。その時、ご自分を殺そうとした人々に対し、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と祈られた。イエスは、「父よ。私は彼らの罪を赦しません。彼らを造ったことを悔やみます。どうか、彼らを滅ぼしてください」などとは決して祈らず、ただ彼らの罪をあわれみ、彼らの罪をその身に負われ十字架に架かられたのである。そこにあったのは、罪という病気に苦しむ人を癒やしたいという思いだけであった。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(1ペテロ2:24)
この御言葉は、罪が取り除かれることを「いやされる」という言葉で表現している。このことからも、神は人の罪を「病気」という枠組みで見ておられることが分かる。つまり、人は「良き者」なのであって、「堕落した者」ではない。「ダメな者」では決してない。誰もが神に愛される「良き者」で間違いないのだ。
(3)神の思いは不変
私たちは、思い違いをしてはならない。旧約聖書はキリストを証しするために書かれた影であり、本体はキリストであることを。「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」(コロサイ2:17)。旧約聖書はキリストを証言するものであり、キリストの変わらない愛を証ししているのである。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)。
そのことを知るなら、旧約聖書に何が書かれていようが、いかなる表現が使われていようが、そこには「罪人には罰」という神の思いなどまったくないことを知るのである。あるのは、キリストが十字架で明らかにされた、「罪人にはあわれみ」だけである。人の罪を見て怒り、罰としての「いけにえ」をささげさせようなどとは決して思われないのだ。そのことは、イエスの次の言葉からも明確に知ることができる。
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マタイ9:13)
このように、神の人に対する思いは「あわれみ」であり、その思いは何があろうとも「不変」である。その証しが、キリストの十字架であった。神の愛は変わらないからこそ、人が罪という病気で苦しんでいるのを見れば、神は「あわれみ」で胸が熱くなる。呼吸が乱れるほどに心が突き動かされ、何としても人を苦しめている罪を取り除こうと、思いをめぐらされる。そうした神の思いを、旧約聖書は「ナーハム」を使って言い表したのであった。だが、今日の私たちは、それを「悔やむ」という意味に解してしまう。
なぜそうなってしまうかというと、人は生まれながらに罪を犯すと責められ、「お前が悪い!」と言われ続けてきたからだ。罪を犯せば罰を受け、「お前はダメな者!」と言われ続けてきたために「罪には罰」という眼鏡を掛けるようになり、それで神も人に対し「罪には罰」という思いを抱くものと思うようになった。この「罪には罰」という眼鏡こそが「人間的な標準」であり、人はその標準で神も知ろうとしたために、こうした「ナーハム」の誤解が生じるようになった。そこで聖書は、苦言を呈する。
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(2コリント5:16)
では、神の変わらない人への思いから、一体どのような福音が見えてくるのかを最後に見ておこう。
(4)神の福音
キリストの十字架を見上げるとき、そこに神の本音を見ることができる。それは、人を愛してやまないという本音であり、その愛は人の行いには左右されないことが見えてくる。そもそも人は神の部分であって、「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)、神に似せて「良き者」として造られたのだから、神の愛が変わるはずもない。
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。(創世記1:31)
従って神の福音は、人は今も神の栄光を反映させているということが前提になり、その栄光の姿から栄光へと、本来の姿に癒やされていく話になる。それは人の働き(行い)によるのではなく、御霊なる主の働きによるというのが福音になる。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18)
ゆえに、自分が罪を犯すからといって自分を裁くのではなく、医者であるキリストのもとに行き、癒やしていただければよい。人の罪は、神の愛が見えないことの「不安」(死の恐怖)が原因なので、キリストのもとに行き、十字架の打ち傷による「全き愛」で癒やしてもらえばよい。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。(1ペテロ2:24、新改訳2017)
聖書には、あいにく「罪を悔い改めよ!」というセリフは1カ所もない。あるのは、「神に立ち返れ!」であり、「心を神に向けろ!」である。つまり、「医者のもとに行け!」である(参照:福音の回復(52))。そのことをイエスは、次のように言われた。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)
このように、私たちは病人であって、キリストは医者なのである。それはただの医者ではない。24時間いつでも対応し、病人のためならいのちさえ惜しまれない医者である。神は人を「良き者」として造られたからこそ、そのようにされる。いくら人の姿が罪を犯す病気であろうとも、人は変わらない「良き者」だと神は知るからこそ、何としても人の罪という病気を癒やそうとされる。これが神の福音であり、それは人の罪を裁くのではなく、人をただ救う(癒やす)福音にほかならない。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17、新共同訳)
「救われる」と訳された言葉は「ソーゾー」[σῴζω]で、この言葉には「癒やす」という意味がある。つまり、自分のことを「ダメな者」と思うのは誤解であり、誰もが神に愛されている「良き者」なのだ。ただその「良き者」が、入り込んだ「死」によって罪を犯すようになったにすぎない。罪に苦しむのは、人が「良き者」であるからであって、それが本来の姿ではないからこそ苦しむ。人が生まれながらに「堕落した者」であれば、罪こそが喜びになり、罪に苦しむことなどない。ゆえに、人の罪は「病気」なのであって、キリストはそれを癒やせる唯一の医者となる。これが、神の福音となる。
「福音の回復」というコラムは、まさしく福音が正しく理解されることを願って書いてきた。人は「良き者」だということを前提に、書いてきた。いよいよコラムも、次回が最終回となる。次回は、まことに目からうろこが落ちる話になることだろう。
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