第1章キリスト教と近代の迷宮をめぐって
第1章は、本書と同じタイトルで「キリスト教のことが最もはっきりと論じられている」(iページ)と、キリスト教そのものに焦点を合わせています。その展開は、「キリスト教をその内側から思考してきた者と、キリスト教に対して外から――いわば無神論者の立場から――関心をもってきた者との間の対談」(ivページ)である本書の特徴の良さが発揮されています。
具体的には、26項目の多様な課題を取り上げています。以下の最初の3項目が示しているように、現代アメリカの状況を切り口としています。
アメリカ大統領選から見えてくるもの
アメリカのプロテスタンティズムの根源
アメリカ社会は底が抜けている
この切り口から書き始めている全体のうち、以下の5項目でカルヴィニズムを取り上げて掘り下げ論じられています。
カルヴィニズムの貢献
ルターとカルヴァン
カルヴァン派の真の特徴は?
カルヴァン派のイメージはどこから来たか?
カルヴィニズムとピューリタニズム
その場合、マックス・ウェーバーの主張に見られるように、カルヴァン派の顕著な特徴として予定論を取り上げるのではなく、稲垣先生の発言として「カルヴァン派の特徴は『恵み』と『愛』」(29ページ)、「カルヴィニズムにおいては恩恵論が重要」(30ページ)と明示されています。
この提唱は、長い間の稲垣先生との交流において共鳴してきた中心的な事柄です。本書においても、対談という形式で効果的に提示されています。キリスト教を単に救済論との観点のみから見るのでなく、「世界の見方――人間観、社会観、自然観、哲学的にいえば世界観――を与えてくれるもの」(22ページ)との受け止め方です。
今までもそうでしたが、私の素朴な応答は、上記の神の恵みを中心とする恩恵論は、カルヴィニズムの特徴であるというだけではなく、聖書全体がまさに神の恵みの宣言。普通の聖書の読み手である私たちも、例えば詩篇119篇64節、「主よ。地はあなたの恵みに満ちています。/あなたのおきてを私に教えてください」を聖書全体の要約として受け止め、万物を神の恵みに満ち満ちたものとして見る世界観。また、1コリント15章10節に見る使徒パウロと共に「神の恵みによって、私は今の私になりました」との人間観。このような聖書の世界観や人間観を視点に、世界や人間・私を見る生活や人生の実践的な営みを、2人の優れた専門家の対談はそれでよいのだと励ましてくれると受け止めます。
もう1つ、とても励まされた点があります。それは、以下の3つの項目にわたって展開されている、聖書の証言するイエスご自身に対する集中です。
神殿としてのイエス
ただの人、ムハンマド
イエスは神である
稲垣先生の発言は当然としても、大澤氏は「神の子、まったき神にしてまったき人である者の死という解釈をとった」(50ページ)、「神の子の死だから、ただごとではなくなる。なにせ神がこの地上に現れ、それが十字架上で無力に無惨に死ぬのです。この死に特別な意味がないはずがない。これはもうただの歴史のなかの一コマとはいえない」(51、52ページ)、「イエスの場合、同時代人は神をその目で見たということです。神の言葉をその耳で聞いたということです。・・・僕も一個人として、直観的にその話に魅力を感じるのですが、論理的にはまったくもって説明しがたい」(52、53ページ)と注目すべき発言をなさっています。ここに、論理的にはまったくもって説明しがたいが、聖書の証言を事実の証言として受け止め、引きつけられている方の真摯な姿を見る、独断でしょうか。
稲垣先生の言葉は、先生の立場から当然とはいえ、やはり私にとっては感動的です。「マルコ福音書の記述からすれば、それは墓が空っぽだったという目撃証言で、たしかに目撃証言にすぎないのだけれども、彼らはすごいリアリティを感じた。それで初代教会ができた。これが私がスムーズに理解できる物語なんですね」(56ページ)。そうです、リアリティ、事実そのものの醸し出す波及的雰囲気、読む者の心、生活、生涯に刻み付けられ、それらを変えていく言葉と、言葉の背後にある事実のリアリティです。
稲垣先生の言葉に対する大澤氏の応答も、私にとって意味深いものです。「そのリアリティがほとんど衰えず、後世にいたるまでそのリアリティの持つ意味に何度も立ち返ってきているのが凄いですね。今日、話題の中心にいるカルヴァンも、イエスの死刑と復活から千何百年もなってなお、その出来事の意味を新たに引きだしつづけている」(56、57ページ)
1章の最後の項目「謙虚と傲慢」を深い思いで味わいました。
大澤氏が「言葉を読む」と「神のみわざの場合」を対比している文章です。「言葉を読むという場合、神の意志が言葉になっているわけだから、究極的には神の意志に到達できるような印象を受けるのだけれど」に続いて、大澤氏は、「神のみわざの場合、神の造った作品を見ているだけですから間接証拠なんです。どんなに探究しても神の意志には到達できるかどうかは微妙で、あくまでも仮説にとどまる」(110ページ)と明確に文を刻んだ後で、私にとって心に響く指摘をなさっています。
「だから謙虚にいえば、あなたはいつまでたっても本当の真理は知らないんですよ、ともいえるし、逆にいえば、仮説を積み重ねることによってどんどん進歩し、真理に近づくともいえる。ポジティブにいえば進歩主義の傲慢に、いつまでも真理に到達しないということを強調すれば、謙虚に自分の罪を自覚しているというわけで、そこには二重性がある」(110ページ)
聖書をメガネに万物を解釈する、これが私たちの役割である聖書解釈と私は理解しています。上記の大澤氏の指摘は、2テモテ1章7節の言葉を想起させてくれます。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」。慎みの神学をささやかながら心しています。
■ 大澤真幸、稲垣久和著『キリスト教と近代の迷宮』(春秋社、2018年4月)
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