国教化への抵抗
伊藤博文は明治憲法の作成に最も影響のあった人物であるが、彼は米国憲法を学び、これに傾倒していた。
葦津珍彦(あしづうずひこ)によると、明治憲法はプロシアの立憲君主憲法を模範としたが、草稿の作成に当たり、顧問を務めたドイツの憲法学者たちは、神道を国教として採用するよう伊藤に強く勧めたという。しかし、伊藤はこれを拒否した。ドイツに行ったときも憲法学者のルドルフ・フォン・グナイストは、憲法の中に宗教の制約を置く必要を説き、せめてジェスイット(イエズス会)の禁止だけは入れるようになどと伊藤に助言したという。
しかし伊藤は、米憲法に従い、政教分離を原則としたものを作った。当時の世界の憲法のうち、政教分離を含むものは米憲法、およびフランス革命以後のフランスの諸法律だけであった。だから伊藤博文が、その原則を取り入れたことは驚きである。1889(明治22)年に発布された明治憲法はこの点で、世界的に見ても時代を半世紀は先取りしていたことが分かる。
信教の自由については、「国民たるの義務に背かざる限り・・・」とあるが、伊藤はこれを納税、兵役、順法を意味するものとし、その点では彼の政敵たちにも異論はなかった。また、政敵から憲法に「皇室の尊崇」を入れるように要求があったが、伊藤は無視したという。
(以上、『国家神道とは何だったのか』[葦津珍彦著、坂本是丸註、神社新報社]による。葦津は神社新報の主筆であり、彼のジャーナリスト的な感覚から出ている談話を国学院の坂本是丸が筆記し、関連の文献を当たり、詳細な注を付けている。これは初心者にとって好適な入門書である)
このような明治政府の神道政策の揺れと結末を見ると、「祭政一致」という理念は、なるほど維新を始めるためのエネルギー、いわば1段目ロケットであったが、維新が成立すると不要になり、切り離されたことが分かる。「攘夷」が、維新の開始のための契機であったのが早々と捨てられ、倒幕という理念に変化したのと似ている。維新によって、日本は未知の航路に入っていった。最初は祭政一致という燃料も使おうとしたが、直ちにそれを捨てたのは進歩の跡だとも言えよう。
なお、この時期のものには「皇室尊崇」という語が多く出てくる。これはしばらく前までは庶民の感覚では「殿様」が偉く、その上に「公儀」(幕府のこと)があり、それがともかく最高の権威であった。天皇などというものがある、というのは庶民にとって初耳であった。それが短い間に変わってしまい、実は天皇が偉いのだということになったが、一般民衆の観念はまだ切り替わっていない。そこで「皇室尊崇」ということを強調する必要があった。そのようないきさつがある。
文献の字面だけを見ている限りでは、あたかも強烈な天皇制の世界があったかのような印象を与えるのであるが、現実は反対なので、むしろ懸命に新たな政体を周知させ、民衆の受容を求めている姿がある。
そう見てくると、「皇室尊重」を強調せねばならなかった事情と永井荷風の日記の叙述とは合致する。
天皇機関説
1935(昭和10)年に至るまで、天皇機関説が標準的な理解であった。前述したごとく、法人としての国家に主権が存在し、天皇自身に主権があるのではなく、天皇は国家を代表するのみという思想である。
この説の理解によれば、憲法の「天皇は神聖にして犯すべからず・・・」とは、天皇の無答責任を表現しているものとされた。つまり、答弁の責任は大臣にあり、天皇にはないのである。1935年までは、これが高等文官試験の模範答案とされていたことは前に述べた通りである。
1935年に陸軍から国体明徴問題が出され、天皇に主権が存するという見解が公式とされた。ここに明治政府以来の伝統が捨てられ、帝国大学法学部の教授たちはすべて天皇機関説を取っていたものが、一斉に交代させられた。こうして天皇主権説に変わり、天皇神格化が推進されていった。
神社神道の非宗教性
葦津によれば、神社神道を無宗教性のものとするという案は、島地黙雷(もくらい)の主張が通ったのであるとする。その時、神道国教化を前にして、本願寺派は危機感を強め、神社神道は皇室の「治教」であり、かく政治哲学の一部であり、非宗数的な典礼であるという理解を主張した。島地は欧州を歴訪し、1868(明治初)年に政教分離、信教自由の建白書を政府に出している。
また、祭神論争の頃から神道側にも危機感が強くあり、自分たち神道は、宗教としては到底存続は困難で、他宗教に対する優越を保持するためにも宗教から外れて「国家の祭祇」として非宗教の立場をとるのが得策である、との立場に傾いたことは先に述べた。
そこで政府は、これらの神社非宗教論を採用し、こうして神社神道は習俗であり、宗教ではないという線が出てきた。葦津によると、政府は神社が非宗教であるという点を守ろうとし、神社に葬儀をさせなかった。日清・日露戦争では従軍僧を本願寺がボランティアの形で出し、連隊本部また軍病院などで戦死者の葬儀と回向(えこう)に当たらせた。
戦地からは従軍僧ばかりでなく、神職にも従軍をさせ、神葬祭もしてもらいたいとの願いがあったので、内務省はこれを許可した。しかし、神社神道からは出させず、教派神道(天理教、金光教など)の数師たちの従軍のみを許した。
なお、葬儀については、52回帝国議会、貴族院宗教法案特別委議事録に政府側委員の下村寿一による答弁(1927[昭和2]年2月9日)として、葬儀は官幣、国幣社では行っておらず、府県社以下では葬儀を許すような規定のあるところもあるが、これは神職個人の行為であって神社の行為ではない、と政府の見解を述べている(『神社問題とキリスト教』戸村政博編、新教出版社)。(戸村編のこの書は、貴重な資料集で、デジタル化されれば検索が便利。実現してもらいたいものである)
なお、1882(明治15)年には、「神官は葬儀に関係せざるものとす・・・但府県社以下神官は当分従前之通」という内務省の通達がある(戸村、前掲書)。
浄土真宗10派の抵抗
1930(昭和5)年1月に、真宗10派から出された要望書がある。この文書の宛て先は総理、文部、内務の各大臣、また神社問題調査会の各委員である。
真宗10派よりの要望書のあらまし
神社は祖先を崇敬し・・・遺徳を感謝する国家的造営物・・・もし神社が宗教味を帯ぶれば崇敬の普遍性を失う・・・この点につき政府従来の所見は、相当に判然たるものありと存す。
神社を宗教圏外に立たしめたる、明治いらいの政策は賢明なる方針・・・それは宗教制度調査会の昭和2年10月の議事録にある文部大臣の答弁よりして明らかである・・・
もし、それ過去の歴史に拘泥(こうでい)して神社を宗教圏内に置かんとせば・・・教義信仰上多数の真宗信徒がこれに参拝する能わざるのみならず、各宗敬仰徒もまた同様なるべく、ことに科学唯物論の学徒に至りては全然神社崇敬の念慮を絶つべし。
真宗教義の立場としては神社に対し
1. 正神には参拝し、邪神には参拝せず
2. 国民道徳的意義において崇敬し、宗教的意義においては崇敬する能(あた)わず
3. 神社に向って吉凶禍福祈念せず
4. 此の意義を含める神札護札を拝受する能わず・・・希(こいねがわ)くは、この点に就て十分の考察を加えられんことを。昭和5年1月
真宗10派代表 署名
(戸村、前掲書)
1930(昭和5)年という時点では、これだけのことを本願寺派、大谷派をはじめとする浄土真宗の10派でさえも発言していた。また、「科学唯物論の学徒」 にも配慮するように言っているが、昭和の初めには「唯物論の学徒」にも市民権があったことが伺える。しかし、1935(昭和10)年以降は、事情は急速に変化していった。なお、キリスト教側からの要望や、また反対については周知のことであり、多くの著作もあるので省略する。
本当に思想統制が強化されていったのは政党が解散させられ、大政翼賛会が発足した1940(昭和15)年10月で、先に述べたように内務省の外院として神祇院が設置され、祭政一致が成就した。米英をはじめとする敵の脅威の前に、国の滅亡が迫っていたときである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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