2015年に開催した写真展「Stavros アトスの修道士」では合計50点の作品で、今年7月の日本外国特派員協会では合計17点の作品で、この時代にもこのような場所が存在するという聖山アトスの全体像や祈りの瞬間、修道士の暮らし、生活についての展示をしてきた。
2014年以降、私は合計5度のアトス入山を果たし、そこで見た修道士たちの祈りの姿から、正教の本質、修道士たちの人間観について触れ、感じることができた。
今回の展示では、その修道士たちの祈りの姿を映した写真約30点を組み、彼らの祈りとは、巡礼とは一体何なのかということを、皆様と考えられる展示にしたいと思い、企画した。
また、新潮社より8月31日に『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』を出版する運びとなり、前回、前々回の個展を受けて、今回の展示のテーマを網羅した章立てとなっており、展示と共にお楽しみいただけることと思う。
記憶〜祈りのとき
ある晩の祈りの時、巡礼者たちはメモ帳に多くの名前を刻んだ。修道士はそれを受け取り、司祭に託す。司祭は、その名を小声で口ずさみながら聖パンを刻む。そこに書かれた名とは、家族や友人、知人の名前・・・。仕事仲間や病気で苦しんでいる友人など、自分以外の名前であった。ほとんど自分の名前は書かれないという。(我々は普段、寺社へ行くと、だいたいいつも自分へのお祈りをすると思う)
そして、祈りが始まると、彼らは名を刻んだ人を思い、ひたすらに神と向き合う。この、人のために祈るという行動から私は、本来祈りとは人のことを「想う」ことなのではないかと感じた。
ある日、M司祭は私の兄弟の名を聞いた。聖堂で祈りが始まるとき、M司祭は聖パンを刻みながら、私の兄弟の名を呟いた。間違いなく、祈りの本質は人のためにあるものだと確信した瞬間だった。
祈りとは、きっと自分を取り巻く人のためにあり、神である(正教の場合は)キリストの力を借り、今生きている自分の身の回りの人のことを想うこと。その対象と一体一で向き合える時間なのではないか。争い事が多く起きているこの世の中で、今回の展示を通じて、今1度身近な人から人を「想う」ということを感じていただけたらと思っている。
私は会社員時代から、先日105歳で亡くなられた日野原重明先生を10年以上にわたり撮り続けてきた。先生は10歳の小学生たちに向けて「いのちの授業」と題し、日本全国の小学校で「いのちとは」ということを教え続けてこられた。
私は何度も撮影に同行させていただいたが、そこで先生は「いのちとは、自分で自由に使える時間である」と仰り、それを「人のために使う努力をしましょう」と説かれた。長生きをすれば、その時間は多くなると仰り、先生自身もつい先日までそれを体現されていた。
私は先生のその教えが、アトスで得た経験、正教の教えとがっちりと結びついたと感じた。私がアトスを撮る上で、先生の教えは土台ともなっていたのであった。
日本の正教会ではこの人を「想う」という祈り、行動を、本来自分の過去に体験した出来事や知識を指す場合に用いる「記憶」という言葉で解釈している。
今回の展示「記憶〜祈りのとき」をご覧いただき、こんな時代だからこそ、祈りとは一体何のためにあるのか、その言葉、行動について、皆様と一緒に考えられる時間が持てたらと思っている。
写真展情報
9月7日(木)より、キヤノンギャラリー銀座にて、中西裕人写真展「記憶〜祈りのとき」を開催します。2015年7月に開催した「Stavros アトスの修道士」の続編となります。ぜひお越しください!
<会期>
キヤノンギャラリー銀座 9月7日~13日
10:30~18:30(最終日15:00まで)日、祝休館
キヤノンギャラリー名古屋 9月28日~10月4日
10:00~18:00(最終日15:00まで)日、祝休館
キヤノンギャラリー福岡 10月12日~24日
10:00~18:00 土、日、祝休館
書籍情報
2017年8月31日発売
中西裕人著『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』
原始キリスト教の伝統を色濃く残すギリシャ正教の聖地。俗世とは隔絶された環境で、家畜さえ雌を排除する徹底した女人禁制の下、生涯、この地に生きる2千人の修道士たちの祈りの日々――厳しい撮影制限のため、ほとんど知られることのなかった謎の宗教自治国の実像を、日本人として初めて公式に撮影した、驚きと感動の写真紀行!
<目次>
はじめに
第1章 アギオン・オロス・アトス
第2章 修道院の祈りと生活
第3章 冬のアトス 降誕祭
第4章 ケリに生きる修道士
第5章 「記憶」祈りのとき
アトス修道院に暮らして 性善説のキリスト教
日本ハリストス正教会司祭 パウエル中西裕一
写真解説
おわりに
中西裕人著『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』
B5判変型・175ページ
新潮社
定価5800円(税別)
◇