高橋三郎・島崎暉久共著『仰瞻・沖縄・無教会』(1997年、証言社)への応答
(3)回顧と仰瞻(ぎょうせん)
第二論考は、筆者とまったく同世代の著者が、筆者も参加した講演会での講話に基づき書き上げたものです。第三論考はその講演会と前後の報告を大切な内容とした論考なので、筆者との距離関係は極めて近いものです。第一論考と筆者は、そのような関係にはありません。
しかし、他の関係はあります。1960年代の初め、東京・西荻窪の待晨堂(たいしんどう)の書棚で、高橋三郎著『無教会主義の反省と未来展望――ドイツ通信――』を目にし購入しました。文字通り時間を忘れ心熱くし通読した21歳の時以来、高橋先生の著書、また月刊誌「十字架の言」を読み続ける感謝な出会いがあります。
本論考も、最初、「十字架の言」1997年4月号の誌上で、また月に1度那覇市首里石嶺の宮城航一、さゆり宅で開かれる「十字架の言」読書会で数人の方々と感想を分かち合いながら味わいました。こうしたことごとを背景に、本書に位置づけられた本論考を、序において島崎先生の指示なさる順序で読み進めます。
① 何が
(イ)建国記念の日
2月11日を建国記念の日と制定したのは、「天孫降臨の神話と神武天皇の即位という架空の伝承をこの国の発端として確定し、ここに日本国の起源を見」(4ページ)ようと、「この国はその統合の原点を過去に求めている」(5ページ)、この点が重大と指摘します。
なぜなら、この過去の建国神話という「国家統合の基盤を共有できぬ人々は、原理的に差別され阻害される」(5ページ)。ここに、「日本人の間に、異質的なものの存在を許さぬ偏狭な排他性が広くみられる根源的理由」(5ページ)を、高橋先生は見るのです。
しかし、「初代のキリスト信徒は救い主の来臨を切に待ち望」(5ページ)む信仰共同体を形成、「キリストにおいてはユダヤ人も異邦人も一つなる天国の民として、キリストのエクレシアの中に固く結ばれる道が切り開かれた」(5ページ)と2つの共同体の間に対比を見ます。「共同体としての基盤を過去にもつか、それとも前方に仰ぐか」(5ページ)、この相違に注目することは、共同体の自己意識の混乱から解き放たれるため、決定的に重要であると強調します。
(ロ)共同体統合の視点から聖書を見れば
共同体としての基盤を過去に持つか、それとも前方に持つか、「二つの統合原理が聖書自身の中に共存している」(6ページ)事実を、ユダヤ教徒の旧約聖書の受け止め方、パウロのダマスコ途上の経験、「イエスの死と復活を経て成立した新しい信仰共同体」(7ページ)が、「あらゆる民族に対してこの福音を宣べ伝え」(7ページ)る姿などを通し通観します。
(ハ)新しい信仰共同体・キリストの教会の制度化
制度化の具体例としては、「救いに必要な正しい信仰なるものを信條として制定」(7ページ)、「サクラメントへの参加を信徒たるものの資格として要求」(7ページ)、サクラメント「を執行する聖職者のヒエラルキー(位階制)を制定」(7ページ)、こうして「地上の現実としては、歴史上のある一点から始まった信仰的條文を統合の原点として固守した点においては、ユダヤ教団の場合とまったく質を同じくする宗教団体へと変質」(8ページ)、「制度的枠組みについて」(8ページ)の対立抗争の「点では十六世紀にルターによって遂行された宗教改革もその例外ではなく、多くの宗派に多極化した諸教派の間で迫害や宗教戦争が起こる事態」(8ページ)をすら招いた事実を指摘、16世紀の宗教改革を絶対化せず、相対化します。
(ニ)内村鑑三の提示した無教会
内村鑑三自身は、「キリストを仰ぎ望み、幼な子のようにその救いにひたと依り縋りつつ、その忠実な証し人として一生を貫いた人」(9ページ)であり、「内村特愛の言葉」、「仰瞻」(仰ぎ見る)が示すように、「ひたすら十字架上の主を仰ぎ見」、「統合の原点をこのキリストの中にのみ見ていた」(9ページ)重要性を強調し、内村鑑三の提示した無教会が企てた、真の原点復帰としての宗教改革であった(8ページ)と指摘します。
(ホ)内村鑑三のエピゴーネンの中から
しかるに今や、「『無教会キリスト教』なるものを内村の信仰思想として宣伝する人々が現れ」(9ページ)、無教会の統合の原点を「歴史上の一人物たる内村鑑三その人の中に求めている」(9ページ)、これはまさに「歴史の皮肉」であり、「致命的欠陥」(9ページ)と見なしています。
この具体的実例は、内村鑑三記念講演会に無教会統合の原点を求めていることです。また、「無教会キリスト教」なるものを内村鑑三が創設したとする意味で、この名称の使用をあげ、セクト化を深く危惧し警告しています。
(へ)本来の無教会、希望の無教会
内村鑑三自身が何を目指したかを確認し、そこからのずれ・ゆがみを危惧し、警告しながら、同時に「キリストを信じ仰ぐことを唯一の依り頼みとしつつ真理を愛するあらゆる人々と手をたずさえて、来るべき時代を天国に向かって前進し続ける」(10ページ)、本来の無教会、希望の無教会の姿を明示します。「真理を愛するあらゆる人々」とは、もちろん、無教会の人々とは限らないのです。
② いかに
(イ)時の流れ、歴史的展望の中で
決して大冊とはいえない本書、その中でも本論考は、一番短いものです。しかしそこには、「数千年に及ぶ人類の精神的思想的営為を鳥瞰(ちょうかん)しうる者にしてはじめて提示しうる思想が、圧縮されて提出されて」(1ページ)おり、執筆当時の高橋先生のご健康状態を知るなら、真の意味で驚異的(Ⅱコリント12章9節)と言わざるを得ないのです。
この短い論考は、いかに書かれているか。第一の特徴は、時の流れの重さを受け止め、歴史的広がりに注意を払いながら展望している点です。
(a)30年
まず「三十年前」と「今年」(4ページ)と、時の流れの中で、「建国記念の日」をめぐるマスコミなどの関心の変化を指摘、注意し、それとの対比で、時の経過の中でも変わらない、「この問題の質とその重さとを、深く心に刻みつけ」(4ページ)る重要性を強調します。
(b)30年ばかりでなく、4千年の時の流れの中で
視点となる著者が生きる現在の30年の流れだけではありません。視野に映る対象と視点との間に横たわる歴史的隔たり、対象そのものの中に内包されている時の流れにも意を注いでいるのです。つまり、一方では「天孫降臨の神話と神武天皇の即位という架空の伝承」(4ページ)が想定する日本国の起源と現在の隔たりを越えて視野に入れます。
また、他方ではパウロ(5ページ)、モーセ、アブラハム(6ページ)と聖書の歴史をさかのぼります。そこでは、例えば対象の1つである旧約聖書に描かれるアブラハムと現代に横たわる4千年に及ぶ隔たりをカバーする視野の広がりを見ます。しかも、旧約聖書の場合、「歴史的推移の跡を見るとき」(7ページ)とあるように、旧約聖書自体の中に流れている歴史的経緯を重視します。
聖書の中に流れている時の流れと同時に、聖書と現代に横たわる世紀の隔たりの内実、つまりキリストの教会がたどる2千年の流れ全体を展望し、その中で、「十六世紀にルターによって遂行された宗教改革もその例外ではなく」(8ページ)と、宗教改革を絶対視ではなく相対化します。
この教会の歴史の中で、「内村鑑三の提示した無教会」(8ページ)も位置づけられます。しかも、その無教会も、「しかるに時代の進展と共に」(9ページ)と、内村鑑三自身や本来の無教会とは異なる動きが生じて来たと、無教会を時の流れの中で見、無教会を絶対化したりしないのです。
また、「私は繰り返し指摘した」(10ページ)と、ここでの課題を、高橋先生の生涯の年月の流れの中で、一貫して主張して来た事実に言及します。さらに注目すべきは、過去の時の流れだけでなく、「来るべき時代」(19ページ)に向けても、大きく視野を広げ展望している事実です。
(ロ)視点を持ち聖書を読む
注目したいのは、「共同体としての統合の基盤を過去に持つか、それとも前方に仰ぐか」(5ページ)が決定的に重要であるとの観点から、「聖書そのものをこの視点から見直してみ」(6ページ)ると、「二つの統合原理が聖書自身の中に共存している、という重大な事実に直面する」(6ページ)と、視野に入ってくるものを提示(7~9ページ)している点です。
1つの視点を持ち聖書を読む。それに基づき記述を展開している(7~9ページ)と見てよいでしょう。ここでは「建国記念の日」をめぐる課題のように、現実に直面している課題を誠実に直視し、現象の根底にある真の問題を明確に意識する。その問題意識を視点として聖書を読む道です。これは、前述の「聖書を」と「聖書で」の場合のように、「聖書の視点から現実を見る」に加えて、聖書の大切な読み方です(現実の視点から聖書を見る)。
「建国記念の日」をめぐる問題の重要性を、時の流れの中で見失うことなく、日常生活の中ではっきりとした問題意識を持ち続ける。そのような生活・生涯の歩みをなす中で初めて、このような問題意識・視点を持ち聖書を読み得るのです。そして、このような視点を持つ時初めて、今まで見過ごしてきた重大な事実を聖書の中に見いだすことは、少なくないのです。
聖書も、視点を持ち見なければ、豊かな内容も視野に入らない。これは確かです。しかしなお問われるべき課題は、その視点が聖書を見るのにふさわしい視点かどうかです。その視点からでは見えてこなかったり、見落としてしまう危惧、その視点に立つために、ゆがんで見えることがないかなど一つ一つ検討される必要があるはずです。
(ハ)各論と注
さて、「その各論的叙述に先立って、聖書そのものをこの視点から見直してみよう」(6ページ)の前半に注意したいのです。
ここで「各論的叙述」とは、直接的には、直前の文章、「その理由は、この自覚が明確でないための混乱が、今なおさまざまの姿をとって、広く存在するからである」(6ページ)から明らかなように、共同体統合の基盤を過去に持つか前方に持つかの決定的な重要性が明確に理解されていないために生じたさまざまな混乱についての叙述と想定されます。
しかし実際には、各論的叙述の相当するものは、「しかるに時代の進展と共に『無教会キリスト教』なるものを内村が創設したとする人々が現れ始めた」(9ページ)以下に見るように、内村鑑三本来の生き方ではなく、そのエピゴーネンの中に見られる混乱だけに焦点が絞られています。
では、各論的叙述は少なく、軽視されているのかと言えば、そのように展開がなされていないと決めつけることはできないのです。
「その各論的叙述に先立って、聖書そのものをこの視点から見直してみよう」(6ページ)の直後の文章で実際に展開している内容は、「二つの統合原理が聖書自身の中に共存している、という重大な事実に直面する」という、総論的叙述と、「ユダヤ教徒は、神の召しを受けてメソポタミヤからの脱出を敢行したアブラハムを信仰の師祖と仰いでおり」(6ページ)以下の各論的叙述に分かれますが、記述の大部分は、各論的叙述です。しかも、この各論的叙述には、注が含まれています。
注においては、キリスト信徒の群れ、ユダヤ教団、旧約聖書の関係を課題として取り上げています。まず、旧約聖書をユダヤ教・ユダヤ教団・ユダヤ教徒がどのように解釈したかが課題です。また、キリスト教徒が、その旧約聖書を、「アブラハムを召し、出エジプトを断行させた神は、イエス・キリストの父なる神と同じひとりの神であることを、固く信じ」(11ページ)、「自分たちの聖書として受容した」(11ページ)とき、またユダヤ教・ユダヤ教団・ユダヤ教徒の旧約聖書解釈と新約聖書の旧約聖書解釈との関係について、その類似と共に区別にも十分な注意が払われるべきではないかが課題です。
問題は、旧約聖書そのものと、ユダヤ教・ユダヤ教団・ユダヤ教徒との関係をどう考えるかです。両者の関係において、一貫性と類似と共に区別をも見失うべきではないと、言えないか。
この課題は、今後さらに検討される必要があります。その際、古代オリエント世界におけるイスラエル民族の歴史と旧約聖書、旧約聖書とユダヤ教、ユダヤ教と初代教会に影響を与えたユダヤ教のエピゴーネン、中世のユダヤ教と宗教改革、現代のユダヤ教とキリスト教会などの関係を、その類似と区別の両面から具体的に検討していく忍耐深い歩みが求められるはずです。
本論考において、「各論的叙述」という記述が枠組みにおいて本来置かれている位置の上で指し示すもの(9ページ後半の内村鑑三のエピゴーネンについての記述)と、実際の文章の記述において機能しているより豊かな内容(6、7ページの旧約聖書、新約聖書についての考察)の両者を考えると、短い本論考においても、各論的検討をなす必要は大きく、特に注を加える必要を高橋先生が感じておられることからも、各論的検討が不可欠なことは明らかです。
なぜ、本論考が取り上げている事柄が、各論的検討を求めるのか。それは、旧約聖書、ユダヤ教、新約聖書、新しい信仰共同体としての初代教会の関係の具体的検討が、教会の自己理解にとり、決定的に重要だからです。
本論考で、直接課題となっている無教会の自己理解についても、この場合、第二、第三論考に関して見て来たように、
内村鑑三自身
本来の無教会
現実の無教会
希望の無教会
これらの関係との類似と区別の両方から見ていくことが必要であり、不可欠です。しかし、「エクレシアを一本の木にたとえれば、その木の根はイスラエル、太い幹はカトリック、枝は教会、そしてこの枝に連なる小さな葉が無教会」(64ページ)とすれば、「小さな葉」が自己理解を明確に持つためには、木の根をはじめ、木の全体に対する理解が不可欠であることは明白です。
そして、「小さな葉」においてすら、前述のごとく、内村鑑三自身、本来の無教会、現実の無教会、希望の無教会の類似と区別の両面を含む、父なる神、御子キリスト、御霊ご自身なる三位一体の神ご自身と共同体の生きた関係に基づく、それぞれの関係理解が不可欠なのですから、旧約聖書、ユダヤ教・ユダヤ教団・ユダヤ教徒、新約聖書、新しいイスラエルとしての教会の相互関係についての考察がさらにより具体的に求められるのは当然です。その各論的検討を求める強い力が、短い本論考を、このように各論的性格を内に含む展開に導いていると見たいのです。
③ なぜ、著者の意図・心
本論考は、「今から三十年前」、1967年の「建国記念の日」(4ページ)をめぐる情況と「今」(1997年)との対比で始まります。そこには、国家共同体の在り方を一貫して見据えている姿勢を見ます。
同時に、「『無教会キリスト教』という名称の中にいかに大きな危険がひそんでいるかということを、私は繰り返し指摘してきた」(10ページ)と、信仰共同体としての無教会の在り方を直視し続けてきた年月を見ます。個の重視と共に、著者の共同体に対する関心が並々ならぬものであることを教えられます。そこに見る課題は、個と全体の関係です。
ここでは、「無教会キリスト教」という名称にかかわる課題に限定し、具体的に検討する余裕はありませんが、1958年7月18日の日付で、「君の処女作である本書を世に紹介する」と矢内原忠雄先生が「序」において記されている『無教会主義の反省と未来展望――ドイツ通信――』において、その後40年繰り返し指摘された基本点が、すでに原理的には提示されている事実だけでも確認したいのです。
こうした一貫し継続する問題意識から、国家共同体、信仰共同体の一員として自らの属する共同体の現実を、本来あるべき姿から批判しつつ、「福音の原点復帰を貫徹することを目指しているのであって、キリストを信じ仰ぐことを唯一の依り頼みとしつつ、真理を愛するあらゆる人々と手をたずさえて、来るべき時代を天国に向かって前進し続ける」(8ページ)と未来展望を、若き日のドイツからの通信とまったく同じ熱き心で書き送っています。「今こそこの問題の質とその重さとを、深く心に刻みつけ」(4ページ)ながら、本論考を生み出した著者の心をこのように理解します。
■『仰瞻・沖縄・無教会』への応答:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)
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