長崎におけるキリシタン殉教の地である西坂から、私たち一行は長崎市の南山手にある有名な大浦天主堂を訪れました。このカトリックの会堂は1865(元治2)年にフランス人宣教師プティジャン神父やフューレ神父らの尽力によって建立されました。そして、この会堂は西坂で殉教した26人のキリシタンたちを記念して二十六聖殉教者堂と命名されました。そのため大浦天主堂の正面は西坂の方向に向かって建てられているということです。
大浦天主堂がまだキリスト教の禁教令が出ていた江戸時代に建てられたのは、長崎のこの一角が外国人のための居留地として認められていたからです。ですから、大浦天主堂は最初外国人のための教会堂であった訳です。すぐその隣にグラバー邸があるのもそのためです。
そして大浦天主堂ができて間もなく、1865年3月17日(2月12日)のこと、 浦上の潜伏キリシタンが十数名で大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗り出るという驚くべきことが起きたのでした。これがいわゆる「信徒発見」と呼ばれている出来事です。
4、50歳くらいの女性が1人、祈っていたプティジャン神父に近づき、「私どもは神父様と同じ心であります」(宗旨が同じです)とささやき、自分たちがカトリック教徒であることを告白したのでした。そして、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実をプティジャン神父に話したのでした。
その後、プティジャン神父は密かに浦上や五島などに布教を兼ねて隠れた信者の発見に努め、浦上だけでなく長崎周辺の各地で多くのカトリック教徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことが分かったのでした。その結果として「浦上四番崩れ」といわれる幕府によるキリシタン弾圧が再燃したのであります。
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