私たち一行が島原城の次に訪れたのは、島原半島の南端にあります日野江城跡です。有馬晴信が城主であった1579年、日本にやって来たイエズス会の巡察師バリニャーノの提言によって、ここ有馬と安土にセミナリヨ(修道士育成のための初・中等教育機関)を創立することとなりました。こうして、日本で初めての西洋学校が誕生することになったのでした。
セミナリヨ(下の写真はセミナリヨが建てられていた場所)では、外国人教師が教鞭をとり、ラテン語などの語学・宗教・地理学などルネサンス期の西洋学問が組織的に教えられていたといいます。生徒たちはラテン語を習熟し、ラテン語による発表会や討論も行いました。
それを視察したイエズス会の準管区長は、あまりの流暢(りゅうちょう)さに「自分はまるでコインブラ(ポルトガル)に居るかのような気がした」と何度も繰り返したと伝えられています。当時の生徒たちが外国語で討論できるレベルだったとは驚きですが、それもそのはず、教師となった宣教師はほぼ全員がヨーロッパの大学で博士号を取得した優秀な人材だったのです。
有馬晴信自身は、最初はキリスト教に反感を持っていたのですが、戦国時代に南蛮の先進的武器などの力を借りて戦いに勝つことができたことがきっかけとなって、若くして洗礼を受けます。そしてキリシタン大名となりました。約7万人の領民たちはたちまちキリシタンとなり、ここ日野江にキリシタン文化の大きな花が咲いたのでした。
城下には、教会やセミナリヨやコレジオ(西洋風学校)が次々に創設されていきました。そのようなセミナリヨで教育を受けた少年たちの中に、天正遣欧少年使節団の4人の少年たちがいます。この4人については、後に詳しく見ていきます。その他、日本人として初めてエルサレムまでたどり着いたペトロ・カスイ岐部という少年も、ここ有馬のセミナリヨで学んだ人でした。
後に禁教令が出て、ここで学んだ少年たちは苦難の生涯を送ることになるのですが、彼らが日本にキリスト教の種を植えていったと言ってもよいのかもしれません。
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