荒井献(ささぐ)氏を師と仰ぎ、大貫隆氏を友と呼べる人はそう多くない。そんな数少ない人の1人が青野太潮(たしお)氏である。彼の『十字架の神学』は私も神学生時代に読まされた(すいません)記憶がある。当時は「宿題」であったため、内容をきちんとつかみ取ることができなかったが、あらためて彼の著作に向き合うと、そこに巨人としての足跡を見て取ることができる。
新書版であるため、ページ数としてはわずか200ページ足らずであるが、その内容は深く、既存のキリスト教に対してセンセーショナルな議論を吹っかけている問題の書である。本書は、いわゆる「使徒パウロ」の生涯と足跡、そして彼の構築したであろう神学を詳(つまび)らかにしてくれている。わずか数時間で読み終えられるというコンパクトさもいい。
第1章は、奇を衒(てら)わずにパウロの生涯を解説する。彼の生い立ちから回心、その後のキリスト者としての伝道活動まで、分かりやすくまとめられている。この辺りは聖書未読のビギナーであっても十分理解することができる内容である。
第2章から、パウロが書いた手紙で後に新約聖書として聖典化される内容に言及している。この辺りから、保守的なキリスト教徒で聖書を字義通りに解釈する方にとっては、びっくりするような記述が散見することになる。詳細は紙面の都合上語れないので、ぜひ本書を手に取ってもらいたい。
そして本シリーズで取り上げるべきは、第3章以降である。青野氏は新約聖書学者であるため、聖書をギリシャ語原文で読むことができる。そのため、私たちが一般に「聖書」として読む口語訳、新改訳、新共同訳などではなく、彼独自の翻訳(それが岩波書店から刊行されている)に基づいて議論を進めていくことになる。
だから事の真偽を私たちが検証する術(すべ)がないため、その論理展開については、彼を信頼してついていく以外に道はない。しかし、これを補っても余りあるほど、彼のパウロ像は私たちが一般的に抱くイメージとは異なっている。彼は次のようにパウロの著作集について語り始める。
パウロ神学において「死」と「十字架」を区別して使う必要性とは
「『イエスの十字架』と聞けば、キリスト教徒の多くはただちに『イエスの贖罪(しょくざい)』を連想するのではないだろうか。しかし(中略)、『イエスは十字架にかかって、私たちの罪のために死んでくださった』、あるいは『イエスの十字架は、罪の贖(あがな)いであった』というような記述は、聖書のどこを捜しても存在しない」
そして聖書の中で、少なくともパウロ神学においては、「死」と「十字架」とを区別して使う必要がある、と述べている。
これは聞き捨てならない、と思われた方は長年のクリスチャンであろう。青野氏によると、パウロはユダヤ教的キリスト教徒によって、キリストの十字架が定式化され、ついには律法化されてしまうことを極端に嫌っていたという。つまり、十字架を「私たちの罪の身代わり」とすることで、全人類の罪を贖う、「強いキリスト」がそこに築き上げられることに反対した、というのである。
では、パウロが真に見ていたキリストとはどんな方なのか。彼はそれを「十字架につけられたままのキリスト」であると表現している。力なくうなだれ、息も絶え絶えになりながら、十字架の上で苦しみ続けられているキリストこそ、パウロが受け入れた真のキリストの姿だ、と語るのである。
両概念の違いは何か。「身代わりのキリスト」は、自分のなすべきことをあらかじめ理解しており、その決意をもって十字架にかかる。そして苦しみと痛みに耐え、「救い主」として死んでいくいわばルカ的なキリスト像だ。それは、犠牲を通して新たな世界が開かれるという意味で、この世に絶大な力を直接的に及ぼす、いわば超人的なイエス・キリストである。
一方、「十字架につけられたままのキリスト」とは何か。それは、十字架の上で無残に殺されたキリストであり、そのような苦しみをどうして自分が負わなければならないのか、その理由すら分からぬまま、弱き存在として死に至る(青野氏の表現であれば「十字架につけられ続ける」)キリストである。この弱き存在のまま、真の「人間」として生涯を全うしたイエスの姿にパウロは「十字架の逆説」を見たのである、と青野氏は語る。彼の言葉をそのまま引用してみよう。
「パウロの『十字架の逆説』は、そのような非業の死を遂げた一個の人間としてイエスを見よ、その最後の生き様と死に様から目を逸(そ)らしてはならない、というメッセージである。そして神はこれに対して沈黙していたのではなく、むしろ、イエスの『復活』を通して、悲惨で弱々しい『イエスの十字架』と悲痛な異議申し立てとを義とし、肯定したのだ」
青野太潮氏のキリスト教の”犠牲批判”は遠藤周作の『沈黙』と共鳴する?
以上の論理展開は、とても難解である。しかし、これにある「補助線」を入れてみると、話は途端に日本的気質を帯びて、分かりやすくなる。
間もなくハリウッド版映画「沈黙」が日本でも公開される。ご存じの通り、遠藤周作が原作であり、カトリック司教が日本に宣教に来て、結果的にカトリック信仰を捨てるまでを描いている。
しかし、主人公は単にキリスト教に嫌気がさして信仰を捨てたわけではない。彼が物語の最後までこだわっていたのは「こんなに悲惨な迫害状況を、神はご覧になってなぜ黙っておられるのか。そんなはずはない。きっと助けてくださる」という考え方であった。
そう考えると、今彼が被っている「苦しみ」は意味があり、たとえこの身が滅びようとも、その犠牲は尊いものとなるのである。そして最後の最後に神の介入によって、彼らは苦しみから解放されることになる。
しかし遠藤の視点は、この従来のキリスト教の教えを「カトリックの傲慢(ごうまん)」として喝破(かっぱ)する。それは本当に、今目の前で苦しんでいるこの名もなき農民たちのためになるのか。それとも「そのような苦しみに対して、キリストと同じような『身代わりの死』を享受せよ」と語る教会組織上層部の命令に従っているだけではないのかと。
青野氏は内村鑑三の「天遣論(てんけんろん)」を紹介しながら、遠藤と同じような批判を行っている。つまり、天変地異や人間の力ではどうすることもできない事態がなぜ発生するのか。それは、人間の罪深さの故である。そして、そこからの解放は、無垢な存在がキリストのように犠牲となることによって与えられる、という解釈である。
犠牲者は「現代のキリスト」となって、後に生きる者たちのために亡くなったと捉え、彼らの犠牲を神聖視することにつながっていく。しかし、それが強要されるとしたらどうであろうか。パウロが聖書の中で「偽りの福音」と語り、幾度もこれから離れよと語っていたのは、この「身代わりのキリスト」という論理だ、と青野氏は結論づけている。
『沈黙』では、このカトリック的な思考に潜む欺瞞(ぎまん)を暴き出し、真に神を信じる者として生きるとはどういうことかについて問い掛け、司教はカトリック信仰を捨てる。弱き者と同じ姿になり、彼らに寄り添う決断をする。その時、彼の心に神の声が届く。「私は決して沈黙していたのではない。あなたがたと共に苦しんでいたのだ」と。
ここで描き出された神の姿、これこそ青野氏をしてパウロが語ったとされる「十字架につけられたままのキリスト」ということになる。
そう考えてみると、パウロはメジャーとなっている現代のキリスト教とは異なるキリスト教の側面を抱いていたことになる。そして、奇しくもその側面を文学的に察知したのが遠藤周作であり、同じ日本人である青野太潮がそのことをあらためてクローズアップさせたと捉えることもできる。
果たしてこのようなキリスト論は、日本人だからこそ悟ることができたのか。それともパウロの時代から受け継がれた、まさに「原福音」の1つなのか。
映画を通して『沈黙』が世界的に注目されつつある今だからこそ、本書を手にしながら自分の信仰の在り方をもう一度真摯(しんし)に問う機会としてはどうだろうか。
青野太潮著『パウロ 十字架の使徒』(2016年、岩波書店)
◇