「淵に立つ」は、2016年の日本映画の中で最も印象に残った一作だった。
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平穏なプロテスタント家庭に、浅野忠信演じる“八坂”という男が入ってくることで、家族が容赦ないまでに粉々に壊れていく・・・。ひどくしんどい物語でありながらも、そこには日本映画で描かれる既成の「家族」とは異なる、映画としての真摯(しんし)さ、誠実さがとても強く感じられた。同作品で、カンヌ映画祭で「ある視点」賞を受賞、フランスの「ル・モンド」紙には「日本の怒れる映画監督」と非常に高い評価を受けた、今世界が最も注目する若手映画監督の1人、深田晃司監督に話を聞いた。
――「淵に立つ」は、日本で公開されて2カ月ぐらいになりますが、海外でも公開されているそうですね。
来月(2017年1月)からフランスで公開です。映画祭はカンヌからスタートして、ベルギー、カナダ、ロサンゼルスの映画祭、アジアではインドネシアのジャカルタ、プサンと東京国際、それとトルコのイスタンブールの「罪と罰映画祭」というのに招待されました。
――トークショーで生の感想を聞くことも多いそうですが、お客さんの反応で面白いなというのはありますか。
皆さんありがたいことに、それぞれの関心領域に沿って見てくださるんですよね。上映の後のトークショーで、あるお客さんから「最後、あの後どうなったんですか?」という声があって「さあ、登場人物たちの頑張り次第じゃないですかね」と言ったら、「それじゃあひどい。明日の朝目覚めが悪いじゃないですか」っていう反応がありました。
それは映画の作り手として一番の反応だと思いましたね(笑)。一番いいなあと思ったのは、ラストシーンに絶望を見る人と希望を見る人に分かれるんですね。ひたすら落ち込んでしまう人と、逆にラストがすがすがしかったという方もいて、その別れ方が本当によかったなあと思いました。
――「1回目は悲劇で2回目は喜劇だ」というのは本当だなと思いました。1回目は映画を見てあまりに怖くて鼻水が止まらなくて、風邪を1週間ひいたんです(笑)。でも昨日渋谷のアップリンクで見たら、途中で笑い声が結構起きていて、自分もところどころ笑いながら見ていたんです。
そこまで見てくれてありがとうございました(笑)。ヨーロッパの方が笑いは多い気がしますよね。特にこの映画だと、蛍ちゃんが後半障がい者になってしまう。障がい者が出てくると、日本だと「笑っちゃいけないかな」「まじめな映画なんじゃないか」と感じるみたいで。
でも海外だとハンディキャップ自体を笑いにしちゃうところがありますよね。障がい者の支援をされている方に話を聞くと、日本と海外では、障がい者に対する包摂の仕方が大きく違う。日本では基本的に隔離して、社会の外に置いて人目に触れないようにしていくことが多い。でも海外では、隔離すること自体が人権問題であるというのが社会の中ですごい根付いている。健常者も障がいのある人も、一緒に社会の中で生きていこうという共通認識がありますね。その辺りが後半、海外の方で笑い声の起きることがちょっと多い理由かもしれません。
――ポスプロ(ポストプロダクション)もフランスで?
私の場合、日本で編集をやっていると客観的に見えなくなってしまうので、アドバイザーについていただくんです。脚本から関わっていると、何が良いのか悪いのか分からなくなる。物語で意味があるから残したいのか、現場で苦労したから残したいのか分からなくなってくるからというのが理由ですね。現場にも来てない、脚本も読んでない編集のプロに客観的に見てもらっているということです。今回は海外の方にアドバイザーとしてついていただきました。それでメールで意見をもらいながら、編集作業はやっていきます。
――「淵に立つ」はどこかヨーロッパの映画の匂いを感じました。これまで世界15カ国ぐらいのメディアからインタビューを受けられた中で、「最近の日本映画で描かれる家族はスイートなものが多いが、これはビターで、そこが素晴らしい」という評価があったそうですね。
単純にキリスト教的な主題を扱ったという驚きもあったようです。「日本でプロテスタントがいるとは思いませんでした」という質問もありました(笑)。韓国みたいに3割がクリスチャンであるという社会ではないので。思ったより、物語に「罪と罰」とか「因果応報的」な絶望であると捉える人が多く、ああそう受け取られるのかと思いました。
――西欧の映画だとほとんどの場合、常に背後にキリスト教的なモチーフがあるなと感じるんです。私がキリスト教徒だからそこにこだわって見てしまうんですけども。21世紀になってポストモダンで世俗化といわれる現代世界でも、いまだにその価値観が根強くこびりついてるんだなあとびっくりしますし、そこが面白いんです。監督は「淵に立つ」は「最初から壊れた家族を描きたかった」と書いてましたが、主人公がプロテスタントの家族を選んだのは何か理由があったんですか?
理由は幾つかあります。1つには「罪と罰のような因果関係のようなものにとらわれている人たちというものが、よりクリアに見えてくるのがキリスト教という設定だから」というのもありますが、一番の理由は、信仰を失った後のより現代的な人間の孤独を描くためです。もう1つは、脚本の技術的な理由ですが、物語としてあの夫婦の元に八坂が入ってくることがきっかけとなり、夫婦のバランスが崩れ、抱えていた溝が具体的になっていく。
だから脚本としては、夫婦に初めからある「溝」を表現しないといけない。その「差」を無理なく物語の構造の中で最低限、納得できる仕掛けを作らなければいけない。章江は信仰を持っていて、夫は信仰に関心がない。侵入者である八坂は、信仰はないけど、夫と違い、章江の信仰にものすごく関心を持ち、罪を犯した贖罪(しょくざい)的なことを語ることで章江はそこに惹(ひ)かれる。
そういう「格差」をつくるためにキリスト教という設定にしたわけで、それが仏教や神道だとありふれ過ぎているというのはあります。あるいは信仰を持たない家族だと、やはりテーマが見えづらくなったのかなと思います。
――日本映画でクリスチャンの家庭ってどう描かれてるのかなあという興味を持ってしまったんですよね。カトリックではなくプロテスタントの家族という設定にしたのは、画面に十字架を出したくなかったからと書かれていたのが面白いなあと感じました。
単純に、映像的に十字架のインパクトってすごいんですよね。宗教性がものすごく全編に出てきてしまう。その宗教的なインパクトが背負いきれないと、チープな浅いものになってしまうのかなと思うんですよね。最近でもそういう映画もありますけど、だいたいが、わざとキッチュにして、記号やファッションとしてすごく雑にデフォルメされている。キリスト教でない人間から見たキリスト教的な何かが、“観光客が見た外国の風景”みたいに描かれている。
観光に行くと目新しいから象徴的なものにばかり注目してしまう。でもそこに住んでいる人にとっては、それは日常だから本当はそこにフォーカスすることはないんですよね。だから映画でキリスト教を描くときに、いっそ十字架を出さないようにしようと思い、プロテスタントの家族にしたんです。
――そのお話はすごい興味深くて、私は日本で一番クリスチャン人口が多いといわれる長崎に住んでいたことがあるんです。長崎では、日本のキリスト教では最も歴史が古い浦上に原爆が落ちて、カトリック1万2千人のうち8千人が亡くなっているんですが「怒りの広島、祈りの長崎」という言われ方があるんです。永井隆の「浦上燔(はん)祭説」と言われるように、原爆がカトリックの信仰の問題として理解されている。でもそれを批判した山田かんという詩人がいて、彼は「なぜ長崎で原爆を語るときに、エキゾチズムやカトリック的な信仰を絡めて語られてしまうのか。だから長崎では広島の峠三吉や太田洋子のような“原爆に対する怒りの思想”が出てこなかった」と激しく批判していた。“十字架をカメラで撮るといろいろなイメージがついてきてしまうので出したくなかった”というその考え方が、山田かんの批判につながるなあと個人的に興味深く感じたんです・・・。
直感的に、カメラを通して、日本家屋に十字架がある映像は強すぎてしまう。それくらい十字架はインパクトがあるし、そこにどうしても見ている人の意識がフォーカスして影響されてしまうというのはあります。この前対談した黒沢清監督は、最近初めてフランスで映画を撮りました(編集注:「ダゲレオタイプの女」)。そこでフランス人スタッフから「十字架を撮るときは気を付けろ」と注意されたと仰っていました。恐らく、妙なクローズアップをするなとか、下手な撮影の仕方をしない方がいいということなのだと思います。最後、教会のシーンで終わるんですが、そこもいろいろ考えられたそうです。
実は「淵に立つ」でも、妻(章江)をクリスチャンという設定にしたとき、フランス人プロデューサーから「ちゃんと作らないと見る目が厳しくなるぞ」と注意されたんです。
――見る目が厳しいというのはどういうことなんでしょう?
向こうの国は、やはりキリスト教が文化や社会や日常にあって、一般の人には肌感覚でキリスト教が染みついている。そこで映画を公開する以上、映画的リアリズムとして観客のジャッジが厳しくなるということだと思います。
――大変興味深いです。前半の章江の筒井真理子さんのしゃべり方とか、服装とか本当にリアルだなあと思ったんです。教会によくいる女性会・婦人会にいるような(笑)。
筒井さんは、実際にクリスチャンの方に話を聞かれたり、勉強されてましたね。直感的な天性の部分も天才的なんですが、かつものすごく綿密に下調べをして考え、作り上げていく役者さんですね。それと脚本や小説版では、もっとキリスト教要素が出てくるんですけど、映画ではカットしてしまいました。教会のバザーとか、もともと章江(妻)が犯罪受刑者を支援する活動をしていて、教会で章江と親しい設楽も出所者で、設楽の発言がきっかけで八坂も自分が罪を犯した過去を告白するという話でした。
でも編集の際にフランス人から「直接、八坂が章江に自分の罪を告白するから章江の心が動くんだ」と言われてカットしました。映像をつないでみるとスムーズで、八坂の告白がキリスト教の告解的に見えてきて、それはそれでよかったのかなと思いました。
僕の感覚では、日本人的な感覚でいきなり八坂みたいな男が自分の過去を告白するかな?みたいに思ってたんですが、でも実際に映像を見てみると、あの方が映像的に強くなりましたね。
――私はどうしてもキリスト教の方から見てしまうので、アブラハムの「イサク奉献」の物語のように捉えることもできるように思えました。ほかにも章江は信仰を失うわけですが、聖書の中のヨブ記のように「なぜ神はいるのにこのような苦しみを与えるのか?」という神議論を思い出してしまいました。むしろ海外の方がテーマ性として伝わりやすいのかもと思わされました。でも聖書を読みながら書かれていたわけではないんですよね。日本で「罪と赦(ゆる)し」「倫理」あるいは「正義」を映画として描くときに、一度キリスト教を経由して書いた方が分かりやすいんでしょうか。
私の中では、現代人の孤独をできるだけ正確に描写するために、信仰を失うということを描きました。最初のシノプスでは「信仰」というテーマはなかった。それが「罪と赦し」を描くために考える中で、結びついてきたのかなと思います。(続きはこちら>>)
■ 映画「淵に立つ」予告編