中国唐代に景教が中国全土で栄えた理由
景教はひそかに入ったのでなく、皇帝に接見して主イエスの教えを公的に大胆に伝えたことによりました。
公的には635(貞観9)年に阿羅本(あらほん)宣教師が、一行の宣教師たち21人を従えて唐の長安に入り、太宗皇帝に迎えられ、書殿で聖書などを翻訳し、皇帝に献上しました。3年後の638(貞観12)年に公的宣教の許可が下り、全国に会堂建設と礼拝が行われました。
その資金は中国が援助しました。景教碑[781(建中2)年に建立]には「諸州各置景寺・・・」とあり、諸州とは全国、全ての州、中国全土を意味します。各地に景教寺院の会堂が建てられていったことを伝えています。
さらに景教碑には「法流十道国富元休・・・」とあり、「法流」とは教えが伝わったこと、「十道」は全国、国が富み、繁栄したと伝えます。つまり、キリスト教が中国で栄えたことから国が富み繁栄していきました。
さらに「寺満百城家殷景福・・・」ともあり、会堂(寺)にいっぱいの人々が出入りし、家にも大きな光(景)の喜びが満ちたとあります。
このことから745年(天宝4載)に、名称を「波斯教」から「景教」に改名しました。これはペルシアから来たゾロアスター教、マニ教、イスラムと混同されないため区別することにありました。
また、当時の仏教僧からは弥施訶(メシア)教とも呼ばれていました。それはメシアの名を呼んで礼拝し、全土に伝えていたからでした。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
『景教のたどった道―東周りのキリスト教』(キリスト新聞社、2005年)
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