19日付の時事通信によると、18日にノースカロライナ州で開かれた共和党大会で、トランプ氏が自身の今までの失言を「後悔している」と発言したという。ここにきてトランプ氏は以前の「暴れん坊」の精彩を欠き、次第に「普通の候補者」となりつつある。さらに自らの選挙参謀たちも総入れ替えを断行したようである。彼が即興で発言することをなるべく控え、事前に準備した原稿をプロンプター(原稿映写装置)で読み上げる手法を採用しつつあるとのこと。これはどういうわけか?
これでは今までの「トランプらしさ」が削がれてしまう危険がある。そう躍起になっているのはマスコミである。この「トランプ現象」が彼らによって造りだされた一面があることを分かりやすく提示してくれているのが、池上彰、増田ユリヤ著『徹底解説!アメリカ 波乱続きの大統領選挙』(ポプラ社)である。少々紋切り型で、このコーナーのような宗教性を深く追究する構造にはなっていないが、表面をなぞるには最適な新書であると思われる。ぜひ手に取ってみていただきたい。
さて、前回福音派の一部がニューライトの戦略によって右翼化し、新宗教右翼(後の宗教右派)となるところを詳述した。しかし、福音派全てが宗教右派に変化してしまったわけではないということは知っておく必要がある。では、福音派と宗教右派との関係をどのように受け止めたらいいのだろうか? これらの関係をめぐる状況を歴史的に理解することで、トランプ氏が変節をせざるを得ない要因の1つを見いだすことができる。
「福音派」とは?
この違いを説明するために必要なのは、「福音派」がどのように生み出されてきたか、から始めなければならない。福音派が人々に知られるようになったのは、前回述べたように、1976年のカーター大統領以降である。しかしそれまでに、福音派と呼ばれる(または自称する)人々は、米国南部を中心に存在するようになっていた。
彼らの特徴は「聖書に基づいて人生を生きる」ということだけ。あとはおのおのの既存教派の教義を信条として受け入れていても、全く齟齬(そご)を生じさせていない。ではどうして彼らは「福音派」という1つのまとまった集まりになっていけたのだろうか?
源流としての「根本主義者」
その話は、「根本主義」時代にまでさかのぼる。19世紀末から20世紀にかけて、モダニストと呼ばれるリベラルな考えを持つ人々が米国に登場してきた。彼らは近代科学や理性を用いて世の中を作り変えられると信じていた人々で、現代社会の主流となっている。そんな彼らと対立したのが、聖書を生きる指針とする「根本主義者」たちである。やがて1925年の進化論をめぐっての有名なスコープス裁判で全米の笑いものとなって、歴史の表舞台から姿を消すこととなるが、それで彼らのような生き方がついえたわけではなかった。
1940年代半ばになり、彼らは自分たちの親世代のような憂き目に遭わないためにはどうしたらいいかを考察した。そして得た結論は、聖書の信仰をしっかり保持しつつも、その時代へ適合する社会性を同時に持ち続けるという新しい流れを生み出そうということだった。彼らは「新福音主義(New Evangelicals)」を名乗り、かつて南北戦争以前に人々が聖書を素朴に信じていた時代を再び興したいと願ったのである。
社会に開かれた存在となるということは、政治の世界に参入しないまでも、当時の社会状況や大統領などの政治家の発言に興味を持つようになるということである。直近の問題として彼らが捉えたのが「同性愛の容認」と「中絶の容認」であった。さらに彼らの身の回りでは、公立学校で聖書朗読が禁じられ、授業前に行っていた祈祷を廃止させられていた。これらはフォード政権およびカーター政権時代に最も顕著であった。時代はやはりリベラル化へと進んでいたのである。
これらの容認できない事柄が拡大しつつあることを感じた彼らは、従来の教派教団を越えて、おのおのの問題(シングル・イシュー)で集まり、議論したり反対集会を始めたりした。最初のうちは自主的な集まりであったが、やがて彼らは既存教派を出て、志を同じくする人たちと共に、新しい教会を始めることになった。これを「パラチャーチ化現象」という。
この在り方の独自性は、従来の教理や教義で厳密に区分けされることを拒み、ゆるやかに「聖書を信じる」ことで共通項を見いだすメンタリティーである。やがて彼らは共通の敵であるリベラル化社会に対して、共同戦線を張るようになっていく。
大統領選で論じられる「福音派」の捉え方の難しさ
このような「ゆるやかな一体感」とは、白から黒へグラデーションのように移行することを意味する。だから明確な「区分け」はできない。善良で信仰深い名も無き一市民から、政治手腕に長けた熱心な共和党支持者まで全てを包み込む概念、それが政治的な意味での「福音派」となる。
ここに、大統領選挙における「福音派」の捉え方の難しさが存在する。なぜなら、どの程度が「宗教右派」であって政治化した福音派であるのか、それを測る明確な手段が存在しないからである。そのため、最大公約数的に考えることが最も有効な策となる。つまり彼らの支持を得続けるためには、「聖書的価値観」に基づいて彼らが拒否反応を示さないような政策を打ち出さなければならないのである。
しかし上述したように、彼らはグラデーショナルな存在であって、どのあたりが最も求心性が高いかは次第に分からなくなってきている。80年代であれば「同性愛」「中絶」というキーワードであった。そしてこのトピックスを皮切りに、政治の世界へ特化してきたのが宗教右派となる。
だが現在、厳密に宗教右派と福音派とを区別できるものは何もない。特に時代を経るにつれ、彼らがまとまれるトピックスは、次第にその求心力を失っていった。だから最終的には、あまり過激ではなく、また突飛ではない政策で福音派、および宗教右派の動向を見ていかざるを得なくなる。
90年代、ノートルダム大のジョージ・マースデン教授は「福音派とは、ビリー・グラハムみたいな人だ」と半ばジョークめかして表現したことがあるが、まさにこのような表現(~のような、という言い回し)でしか表し得ないのが「福音派」であり、「宗教右派」であることに変わりはない。
トランプ氏の発言の変節の理由は?
2016年、宗教右派がかつてのように選挙に大きな影響を与え得るのかというと、首をかしげざるを得ない。しかし、では彼らを全く無視できるかというと、これまた大きな誤りである。現時点で言えるのは、宗教的に保守だから自動的に支持を得ることができる、とはならないが、逆は十分にあり得るということである。
つまり、彼らがグラデーショナルに抱いている緩やかな一体感の源、聖書的価値観に抵触する言動があるなら、彼らはかつてレーガン大統領を生み出した結束力をもって、今度はその候補者にそっぽを向くことになるだろう。
トランプ氏の変節は、このあたりにもその要因があるように思われる。公の場で相手を「強姦魔」と表現したり、国家の長とならんとする人物が「壁を造り、相手にその費用を払わせる」と侮蔑的な発言をしたりすることに、福音派が嫌悪感を抱いていることは確かである。
このままトランプ氏が傍若無人な発言を繰り返すなら、80年代とは逆の意味で「眠れる巨人」の目を覚まさせることになるかもしれない。そのことに当の本人も気付いたのであろうか? しかし、そうなると彼の魅力が半減してしまうことになるのだが・・・。
次回からは、民主党候補のヒラリー・クリントン氏を見ていこう。
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