三位一体論は人間の理性では理解し難いものである故に、それを否定する人々は少なからずいますが、その中でも考えさせられる批評は「三位一体という言葉は、後代の造語であり、聖書にはない用語だ」というものです。
確かに「三位一体」という用語は聖書には出てきませんし、それを直接的に表現している箇所もほとんどありません。しかし、「三位一体」という直接的な表現が聖書にないということは、聖書が「三位一体」を説いていないということにはなりません。
何かの文章というのは何がしかの内容やそれを書いた著者の意図が込められているものですが、その意図(もしくは内容)が直接的に書かれていないケースも少なくないからです。ある場合は隠喩(いんゆ、メタファー)を用いて、またある場合は行間を用いてそれが表現されます。
佐藤優氏という同志社大学神学部を卒業された著名な方がいます。実にさまざまな分野に対する知見を持っており、現代の日本の言論界に多大な影響を与え続けている方です。彼がなぜこれほど精力的に書き続けているのかについて、『神学の思考』(平凡社)という本の中にこう書いてありました。
「私の著作は、例外なく、キリスト教について伝えています。一般読者でそのことに気づく人がときどきいます。しかし、キリスト教徒は(幾人かの優れた神学者、救済感覚に敏感な牧師を除いて)、私が明示的にキリスト教や宗教をテーマにした作品以外はキリスト教と関係ないと思っています。行間を読む力が弱っているからそうなるのです」(298ページ)
「私は、自分の仕事は、伝統的なキリスト教徒ではなく、日本で圧倒的大多数を占める世俗的な非キリスト教徒を対象に、イエス・キリストは救い主であるということを語っていくことだと思っています」(301ページ)
私はこの箇所を読んだときにショックを受けたのですが、佐藤優氏が各国の政情や経済や歴史について縦横無尽に論じている各書籍(少なくないものがベストセラーとなっている)は、その行間において「イエス・キリストは救い主である」ということを語っており、氏の執筆動機もその一点にあるというのです。
この指摘で分かるように、ある文に関して直接的に明示的に書かれている部分に関しては多くの人が納得できるのですが、暗示的な部分や行間を読み取るとなると、その真意を汲むことはたやすいことではありません。
特に聖書によって説かれている「三位一体論」に関しては、もともとが理性では理解し難い内容である上に、新約旧約の各書簡の中にあるモチーフや言葉をつないでいって初めて見えてくるものですので、理解することは至難の業となってくるのです。
しかし、容易ではありませんが、今まで試みてきたように三位なる神の神秘に迫ることは不可能ではありません。その場合に押さえておかなければならないポイントは二つです。
聖書66巻を何度も読む
通常の本の分量であれば、1日から1週間ほどで読めますので、最後まで読み終わった時点で、最初の方に書かれていた伏線やモチーフなどと結論が結び付くということは比較的容易に起こり得るのです。しかし、聖書の場合は1年かけて通読したりする分量ですので、冒頭の創世記から読み始めていって新約聖書までくる頃には、最初の頃に読んだ内容を忘れてしまい、新約と旧約の内容がリンクしません。ですから聖書の内容を深く感受するためには、ある時期には集中して聖書を多読するということがどうしても必要なのです。
聖霊の助けを求める
三位一体を理解するために一番重要なのは「聖霊(御霊)の助けを求める」という点です。これは聖書を理解するのに一番大切なことですが、当然のこと「三位一体の神様」を理解するためにも欠かせない点です。この方については、イエス様がこのように証言しています。
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(ヨハネ16:13)
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)
聖書をいくら千回読んでも、聖霊(御霊)が導いてくれなければ、大切なことは何も分からないでしょうし、いくら聖霊(御霊)が聖書を教えてくださろうとしても、私たちのうちに聖書の言葉が蓄えられていなければ、無い材料を使って調理することはできません。この両者が必ず必要なのです。
しかし、これらの事柄とは無関係に三位一体論の正当性を明確に主張することのできる安易な方法がありました。それは、第一ヨハネ5:7、8を引用することでした。
「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです」(新改訳)
これのどこが、三位一体論について論じているのでしょうか。聖書の翻訳版というのは実に多くあるのですが、英語圏の聖書の中で一世を風靡していたのがKJV(キング・ジェームズ・バージョン)です。日本語では、欽定訳聖書(きんていやくせいしょ)といわれます。同じ個所のKJVを日本語にすると、以下のような内容になっています。
「天においてあかしするものが三つあります。父とことばと御霊です。そしてこれらの三つは一つです。地においてあかしするものが三つあります。御霊と水と血です。そしてこれらの三つは一つです」(KJV訳)
新改訳聖書にはない部分があることに気付かれるでしょうか。「父とことばと御霊です。そしてこれらの三つは一つです」という箇所があります。「ことば」というのはヨハネの福音書の冒頭で「子なる神」であるイエス・キリストのこととして紹介されていますので、この箇所はまさに三位一体なる神を直接的に表現しているかのように読めます。
しかし問題は、この箇所が14世紀よりも古い写本(聖書)には全く出てこないということです。このことは現在の英語圏において多く読まれているNIV(ニュー・インターナショナル・バージョン)の同箇所の注釈に書かれています。
つまりこの箇所は、オリジナルの聖書にはなかった可能性が非常に高いのです。ではどうしてこのような箇所が作為的に追加されたのでしょうか。またこのように作為的に聖書の内容が追加され得たのなら、私たちは聖書を信用することができるのでしょうか。
言うまでもなくこの箇所は三位一体の教義を擁護する人たちによって追記されたと見るべきでしょう。このような行為に及んだ心情は十分に理解できます。つまり、三位一体を否定するグループからの批判に対して、正統的な教義を擁護したかったのでしょう。
しかし、このような策は逆に聖書の信憑性(しんぴょうせい)に大きな傷を付けることになります。聖書の最後の巻である黙示録においても、人為的に聖書の内容を加減することを厳しく戒めています(黙示録22:18、19)。
では聖書は、全体として信頼に足らないかといえば、幸いなことに聖書の写本の過程というのは現代の批評学において徹底的に調べられており、写本を作るときに誤字脱字などは少なからずあるにしても、このような人為的な箇所は例外的なものであることが分かっています。
ですから、私と皆様はこのような人間的な方法ではなく、聖書を地道に日々読むことと、聖霊(御霊)の助けを求めることを通して、三位一体なる神様ご自身への理解を深めていく者になろうではありませんか。
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