われわれの人生には補色がある。補色とは、ある色をしばらく見つめた後、白い紙に目を移したときに残像として現れる色のことで、赤色に対する補色は青緑色、黄色に対する補色は青紫色といった具合である。
いくら赤色を発しても、見えていないはずの青緑色が残る現象は、色以外でも起こる。サムエル記上16:7に「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と書かれているが、人がどんなに外見を繕っても、神はその人が発していないはずの色、すなわちその心、あるいは動機を見るのである。
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)とあるように、外見上は実行されない行為も、心の中にその思いがあれば実行されたのと同じであると聖書は言う。
このわれわれが隠しているはずの補色は、神にだけ見抜かれていると考えるのは危険である。実は、われわれは日々ガラス張りの人生を送っているのだ。私自身も補色により多くの人を傷つけているかもしれないが、他の人の補色で傷つくこともある。
例えば、道でよく知っているはずの人に出会ったとき、その人が私に気付かなかったふりをし、アイコンタクトを避けることがある。暴言を吐くわけでもなく、嫌な顔をするのでもなく、紳士のように通り過ぎていくとき、「私の存在はその人には大した意味を持たない」という残像が心に残る。
子どもが米国留学していたとき、誰からも尊敬されているある人物が、私のいるすぐ脇で、別の人に「もうすぐ米国に行きますので、ぜひ息子さんを訪問したいと思います」と語っているのを聞いた。
その人の子どもも米国に留学していたのだ。その親切な人物は私に否定的な言葉を語ったわけではなかったが、私には「うちの子どもには関心がない」という強いメッセージが伝わり、残像として記憶に残った。
最近ビジネスから身を引いた義兄に久しぶりに会った。彼は現役の時、多くの人たちと知り合い、飲みに行ったりゴルフをしたりしていた。政治家をはじめ、かなりの人脈があったようだ。
引退後も時々友人と会うらしいが、それらの友人の中には数十年かけて築き上げてきた仕事仲間はほとんど含まれていない。ビジネスで知り合った人たちは、引退とともに姿を消していったらしい。今でも付き合っている友人は、小・中・高の同級生たちだけだと彼は言った。
ビジネスで親しくなっても、ビジネスが終わればその親しさがなくなるのは、互いの補色を見ていたからに違いない。ビジネスがうまくいくためだけに繕った会話や付き合いが延々と続いたようだ。
でも心と言動が一致していない場合、実際には表現されない本音が補色すなわち残像として互いの記憶に残る。義兄のビジネス上の人間関係は、まさにそうであった。
互いに自分の本当の姿を隠していたつもりであっても、本当はガラス張りの人生だったのである。生涯の親友にはなり得ないというメッセージが、明確に伝え続けられたのである。われわれは日々補色を出して生きていることに気付くべきだ。
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