「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(箴言9:10)
福音(ゴスペル)メッセージの中心は、当然ですが神(GOD)に関することです。神と聞くと「ああなんだ宗教か」と言ってすぐに閉じてしまう方もいるかもしれませんが、ちょっとだけ思いとどまってください。日本においては、オウム真理教の事件や歪められた宗教観のゆえにアレルギーを持っている方も多いとは思いますが、そもそも「大いなる存在」に対する信仰心は、人間がこの地に誕生して以来、多くの国で大切にしているものであり、今に至るまで信仰心を持っている人の方が、持たない人よりも圧倒的に多いのです。現代日本では多くの人が「自分は無宗教だ」などと言いますが、それはグローバルな視点において、また人類の悠久な歴史において、かえって特殊な状況だということができます。ではなぜそれほど多くの人が信仰心を持ち、「人間(自分)以上の大いなる方」に思いを馳せるのでしょうか。
それは、人間が「センス・オブ・ワンダー」を持っているからです。それは「大自然の中に神秘を感じる感覚」と訳すことができると思います。これは昔の日本人も持っていた心です。おそらく皆様は巨木や巨石に「しめ縄」が巻かれているのを見たことがあるでしょう。それは、昔の日本人が大きな木や石などにも神性を感じていた証拠です。
このように、大自然を通して神がご自身を人間に現すことを「一般啓示」といいます。いくら科学が発達して、一部の科学者が「論理的に考えて宇宙には神などいない」と宣言したところで、私たちの感性は神を毎日感じるのです。聖書もこのように宣言しています。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる・・・」(ローマ1:20)
この被造物というのは、大自然のことですね。しかし自然というのは「自ら然る(みずからなる)」と書くので、実は神の存在を否定する言葉です。そこで聖書では大自然のことを被造物と表現します。大いなる存在によって造られた物という意味です。
もう一箇所引用してみましょう。今度は美しい詩篇の言葉です。
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた」(詩篇19:1~4)
このように、大自然が神の存在をはっきりと主張しているというのです。そういえば、ある知り合いから面白い話を聞きましたので、ちょっと紹介しましょう。
ある博士が神父さんにこう言ったそうです。「私は一生をかけて宇宙を研究してきたが、神などはいないという結論に達した。そんなものは人間の考え出した幻想なのだ」
それを聞いた神父さんは、ちょっと間を置いた後にこう尋ねたそうです。「それでは博士は一生をかけて宇宙をどれくらい理解したとお考えでしょうか?」。博士は自分の専門分野である宇宙の深遠さを鼻にかけながらこう答えたそうです。「そりゃ君、人類はいくらがんばっても宇宙の1%も理解し得ないのだよ!!それくらい宇宙は広大で深遠なのだ!!」
そこで神父はこう答えました。「それでは、博士が知らない99%の領域において、神様が存在することが明らかになるかもしれませんね」
面白い話であり、核心をついているなと思います。人間の知性や論理だけによっては、神について理解したり、その不在を証明したりすることはできないのです。それはなぜかというと、神が存在するならば、人間よりもはるかに偉大な存在だからです。アリと人間に例えると良く分かります。
例えば、アリの中に超天才型のアリが生まれたとしたら、そのアリは人間の社会の仕組みを理解できるでしょうか。もしくは、一生の間修行を重ねたアリがいたとしたら、そのアリはあなたの心の悩みを理解できるでしょうか。絶対に望めないことでしょう。なぜでしょうか。それは、アリという存在と人間という存在の間に非常に大きな知性のギャップがあるからです。
では、人間と神の間はどうでしょうか。もしも神が宇宙万物や全ての生命を造ったお方だとすると、その神と人間との間には「人間とアリ」以上の大きな知性のギャップがあることでしょう。であるならば、逆立ちしたって人は自力で神を理解したり、否定したりすることなどできないのです。最近では、「神が存在しないことが科学的に証明された」などと言う人もいますが、そんな言葉をやすやすとうのみにしてはいけません。
では、神と人間との間に非常に大きな知性のギャップがあるのであれば、神がいてもいなくても、私たちには結局神を知ることが不可能かというと、そうとも限りません。
そこには、ただ一つの可能性が残されているのです。それは、人間の側から神を求めるのではなくて、神の側からご自身を私たちに示してくださる場合です。こう考えると分かりやすいでしょう。
赤ちゃんは、生まれたばかりでは何の知性もないので、放っておかれると社会の仕組みを何も知ることができません。ただし、知性のまさる大人が一つ一つ教えてあげれば、彼らは少しずつ大人の考えていることが理解できるようになります。
これと同じことです。人間はどんなに努力しても神を知ることはできませんが、神の側からご自身について人間に一つ一つ教えようとされる場合は、可能性があるのです。それを「啓示」といいます。
その啓示には二種類あるのですが、今まで説明してきたように、被造物(大自然)を通して神を感じることを「一般啓示」といいます。皆様は大自然の中を歩きながら、また大きな生命や小さな生命を見たり触れたりした時に、この「一般啓示」を受け取ったことはないでしょうか。もしかしたら、遠い昔、子ども時代には感じていた気もするけれど、最近はそんなことあまり感じないなあという方もいるかもしれません。そんな方は、今度の週末に山や川に出かけて、子どもの頃の感覚を思い出してみてはいかがでしょうか。いやもしかたら、今画面から目を離し、心を落ち着けて外の風景の中に自分の感覚を置いてみたら、すぐにでも神の存在に気付かれるかもしれません。
【まとめ】
- 日本以外の諸国においては、人以上の大いなる存在(神)を信仰している人が多い。
- 大きなギャップがあるため、人間の知性だけでは神について知ることは不可能である。
- 人は神の側からの啓示によってのみ、神を知ることができる。
- 被造物(大自然)を通して神の存在を感じることを「一般啓示」という。
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