3. 沖縄は国際法的に日本か―その地位は法的に未確定
東アジアの中心かつ独立国だった琉球
伊波普猷(いは・ふゆう)という沖縄の先達がいる。すぐれた先駆者、啓蒙家、学者である。この方の生涯のテーマは、「沖縄とは何か」ということだった。それが彼の全ての知的学問的営為、そして啓蒙活動の目的であった。沖縄人でさえ、その問いを忘れている人が多い。学者も例外ではない。本土から来られた方であればなおのこと、その問いを持っていない。持っていても、それはヤマトにとっての「沖縄とは何か」であって、当然沖縄人にとってのそれではない。
しかし、沖縄人は明治以来、「沖縄とは何か」を問うてきた。血みどろの闘いをし、そして現在に至っているが、まだその答えを得ていない。私たちキリスト者はそれがだんだん見えてはきている。沖縄の解放の光も見えてはきているが、明確に回答を得ているわけではない。沖縄の自覚ある人々は、必死になってその答えを探ってきた。
琉球は16世紀頃までれっきとした独立国であり、東アジアの中心的存在であった。大航海時代(15、16世紀)になると、ヨーロッパの勢力が入ってくる。最初はポルトガルあたりが入ってくるが、彼らがインド洋を越えてアジアに入るときに目指したのは、他でもない琉球であった。彼らは琉球しか知らなかった。日本が全く意識になかったとは言えないが、少なくとも彼らにとって日本という国は、琉球のはるか彼方の辺境の地であった。彼らは日本に来ようとは思っていないのである。
当時のアジア世界で見ると、ヤマトは辺境で、中国におけるところの北辺の異民族と同じであった。しかし琉球はそうではなく、むしろ中心になっていた。「この時代の那覇港は、中国・朝鮮・南洋及び日本商人が蝟集(いしゅう)して(筆者注・続々と集まるの意)交易に従事し、さながらの国際都市であった」(東思納寛停著『琉球の歴史』)。西洋人たちも知っており、交易を求めていた。やがて琉球は衰退していく。東から強大な新興国ヤマトがやって来る。中国にも清という新興国ができる。北からの異民族(女真族)、当時の北辺の野蛮人によって明が滅ぼされる。西からはヨーロッパ勢力が進出してくる。そのような東アジア情勢の変化によって琉球は衰退していった。そこに薩摩がやってきて、琉球を侵略したわけである。
薩摩の支配下
薩摩時代の琉球がどういう国であったかについては諸説あるため、詳しく触れないが、確かに琉球王国ではあった。王国ではあったが、れっきとした独立の王国ではなく半独立国であった。実質的に幕藩体制の中に組み入れられながらも、形の上では中国と薩摩への二重朝貢制をとり、琉球王国としての体裁は保っていた。
明治になり、無理やりに武力で日本国家に組み入れられていく。この過程を見るとき日本人は、日本という国をどのように自覚するのか。れっきとした王国を破壊し、自国に組み入れた。また、琉球をどう認識し、どう定位するのか。これらは、日本人にとっての大きな課題であろう。
ある著名な学者は、琉球とヤマトを対等に扱う。一つの広い、ゆるやかな概念で日本というものを包み、その中にウチナーがあり、ヤマトがある。楕円形の中に焦点が2つあるように、ゆるやかな連合的な日本という国をつくっていく。アイヌも入ってくるかもしれない。
すなわちヤマトとウチナー、この対等な2つを広い概念で包み、総称して日本とする。そうすれば、日本にとっても非常に豊かな概念となり、プラスになるだろう。琉球がアジアに向かって開かれているからである。琉球はあらゆる面で日本本土にプラスになる。アジアの国々との付き合いにおいて、歴史的、経験的、地勢学的にも一歩先んじているからである。今は悪い意味で日本が琉球を利用し、破壊している。そうではなく、歴史をこのように対等に理解していけば、今のように日本が沖縄を抑圧することはありえないし、あってはならない。琉球処分を巡っては、実際に様々なことが起きている。これは日本と沖縄、薩摩と琉球だけの問題ではないのである。
ベトナムから見た琉球
私の畏友、比屋根照夫教授から教示を受けたことであるが、琉球処分に影響を受けて独立運動に走ったアジアの運動家たちがいる。ベトナムは近代になってからフランスの植民地になり、王国をほとんど破壊された。彼らは何とかフランスに抵抗し、独立を勝ち取りたかった。苦闘する中で、琉球という立派な国が日本政府によって廃滅されてしまった。そして日本に好き勝手されている。琉球処分の過程を知り、ベトナムの運動家たち、特にファンボイ・チャウなどは心を痛め、『琉球血涙新書』という本まで著している。その中で彼は、琉球処分の悲惨で過酷な状況を述べている。非常に同情に値すると。われわれはそうなってはいけないと言って、独立運動を起こすのである。
アジアの視点から見ると、琉球は身近な共感をもって見られていた。ベトナムだけでなく、他の独立運動家たちにも影響を与えている。琉球処分は日本との問題だけではない。中国との問題だけでもない。それ以外のアジアの人々も琉球を見つめ、研究し、影響を受けている。同情し、共感し、痛み、そして逆に励まされてもいる。あのような状態にならないように、自分たちの国を独立させようという運動へと転換していく。血と汗と涙の、この長い運動の歴史があり、今のベトナムがある。ある日突然生まれたのではない。琉球との関係がそこにある。彼らは琉球を、歴史の中で知っているのである。
日本帝国主義下の内国植民地
台湾で宮古島の島民が遭難した。それを口実に、日本は台湾「征伐」に行く。琉球王朝はこれに対し、大きなお世話だと言って反対するが、日本は強引に出兵する。ここで清国と衝突する。交渉の中で、面白いやりとりがなされる。清国側は、誰が宮古島の島民をあなたたちの国民だと決めたのか、私たちは認めていない、お節介をするなと言う。日本側もそれには答えられない。
しかし日本側は、薩摩の失業士族が中心で、しかもたくさんの被害を受けていた。死人も出ているし、費用もかかっている。だから、賠償せよと清国に要求する。清国はそれに妥協してしまう。当時の国内事情もあったのだが、賠償金を支払ってしまった。琉球人、宮古人を日本国の国民として実質的に認めたことになったのである。これがその後、大きな問題となった。
さらに時が進み、10年ほど経つと、また琉球の問題が持ち上がってくる。その時には、日本は完全に琉球を自分の県にしようとする。琉球処分が完成し、明治11年(1879年)、琉球の側から独立運動が起こる。琉球を日本に併合しないでほしいと、琉球を独立国として認めてほしいと何度も請願する。しかしながら認めない。それどころか、ますます日本化をしていく。
そのような状況の中で救国運動が起きる。林世功(りんせいこう、名城里主=なしろ・さとぬし)、向徳宏(しょうとくこう、幸地常朝=こうちじょうちょう)、葵大鼎(さいたいてい、伊計親雲上=いけいぺーちん)といった志士たちが中国に亡命し、沖縄から出て(脱清人)、中国政府に日本政府の暴挙を止めてほしい、わたしたちは独立国であると請願するが、うまくいかない。とうとう日本の方から、琉球を分割しよう(「分島改約案」)と案が出る。沖縄本島までは日本がとる。宮古、八重山は中国がとる。分け合おうというのである。中国も一時はその気になっていた。北の国境で厳しい状況があったという国内事情もあり、琉球問題に関わっている余裕がなかったのである。しかし、林世功、向徳宏たちが、北京の衙門(外務省)の前で分割案に抗議して自害する。
そういうこともあり、この分割案は非常にまずいということで中国側は批准しなかった。それ以来、中国は一度たりとも、琉球が日本のものであると認めたことはない。カイロ宣言(1943年)においても認めていない。国際法的に見ると、琉球は日本のものではない。その間に講和条約があり、沖縄返還という問題があるが、これらは国際法的には違法である。
分割案は廃案となり、結局日本はそのまま実効支配を続ける。そして日清戦争へと進んでいくことになる。いま日本は中国に対してますます強硬になり、尖閣諸島をめぐって大変危機的な状況にある。ちょうど日清戦争の前、琉球をめぐって中国と日本が非常に厳しく相対していた、その緊張状態と同じである。
ヨーゼフ・クライナーと沖縄の独自性
このように危険な状況の中で、沖縄は今後どのような方向に向かっていくべきか。沖縄はヤマトだけを相手にせず、もっと国際的に沖縄の状況を知らしめ、訴え、地道にその成果を積み上げていくことである。イギリスとスコットランドが対等なように、しっかりと権利、主権を認める形でヤマトと対等にやっていくべきではないか。あるいは、日本から国家的には独立し、独自の道を行くか。いずれの道を選ぶにしても、そのために少なくとも国連などに訴え、国際的な力を借りることである。そうすれば、政治的、文化的、経済的にも大いに可能性がある。沖縄が実質的に本土と対等になり、本土の方たちも納得できるような道があると見ている。
ドイツ人でボン大学の日本研究所所長を長く務めた文化人類学者のヨーゼフ・クライナーという人がいる。彼は文化の面から、日本を沖縄文化と日本文化の2つに分けて考えている。両者は全く同じではないと言う。加藤周一は、「沖縄と非沖縄」という言葉を使っている。日本の伝統的な文化と比べて反とまでは言わないが、沖縄文化はその系統、パラダイムをとっていないのである。
伝統的な民俗学では、沖縄は日本文化の中の一つだと見る。沖縄研究は日本文化の研究のためにするのだとして、日本側から沖縄を取り込んでしまった。柳田などの系統の学者たちはみなそうである。しかしヨーゼフ・クライナーは違う。沖縄はそこで終わるところではなく、歴史的、文化的に本土と対等にあり、それぞれに独自性があると言う。そのように広い意味で日本を考えている。これを世界に訴えようと、各地に沖縄学会をつくり、講演会やシンポジウムも行っている。彼らは精神的な面だけではなく、世界中に散逸している漆器、陶器、三線など、沖縄の工芸品や楽器にも注目している。古い時代から沖縄の工芸品などが貴重品として世界各地に点在していた。沖縄が単なるちまちました極東の国ではないことを示している。沖縄を世界的に認知してもらい、その独自性を確立していこうとしている。本当の意味で沖縄を自立させていく。これは文化の面からの見方だが、政治や歴史の面からもそれは可能である。(続く)
◇
饒平名長秀(よへな・ちょうしゅう)
沖縄バプテスト連盟神愛バプテスト教会牧師。沖縄宣教研究所所長。