イスラエルの家が「反逆の家」と呼ばれる理由は、このあと随所に出てくるが、例えば5章6節に、「エルサレムは他の国々よりも悪しく、わたしのおきてにそむき、そのまわりの国々よりもわたしの定めにそむいた。すなわち彼らはわたしのおきてを捨て、わたしの定めに歩まなかった」と言われる。周囲の異邦人以上に神に反逆しているというのである。例えば、カルデヤ人は神を知らないようであるが、イスラエルを罰する神の杖の役割を果たしている。イスラエルは何の役にも立たない。
しかし、どうであろうか。イスラエルはすでに神に打たれて、刑罰を受けているのである。エホヤキン王の捕え移された第5年、と1章2節で見た。彼らは捕らわれの身でバビロンのケバル川のほとりに宿営している。彼らに必要なのは慰めの言葉ではないか。預言者は彼らを責める立場に立つべきでなく、彼らの側に立つべきではないか。今日の多くのクリスチャンならばそう言うのである。その考えはもっともらしく聞こえる。実際、イザヤ書40章で聞くように、神は「慰めよ、我が民を慰めよ」と預言者に命じたもう。ただし、その文脈の中で言われるように、服役の期は終わったから、そう言われたのである。エゼキエルの場合服役は始まったばかりである。神は我が民とも言われず、反逆の家と言われるのである。
我々は自分の判断や好みを主なる神の御意志に優先させてはならない。人間の好みに合わせて神の救いを描き上げるならば、人々は喜んで聞いてくれる。それはエレミヤ書で見たような偽預言者の道である。真の預言者は、むしろ、人に嫌われることを言う。自分の好みに合わせて神観念あるいは神の像を作るのは、己のために偶像を刻むことである。偶像によって神を知るのでなく、神をその御言葉によって知るべきである。本日の礼拝は宗教改革を記念して神に捧げられる。人間の好みに合わせていく礼拝を、神の意志に服従するものに変革するところに宗教改革がある。
そのように、預言者が反逆の家に同情しないで、預言者の立場を堅持するのは辛いことである。これは預言者に一般に見られることである。例えば、エレミヤは心の優しい人であったが、20章8節で、「わたしが語り、呼ばわるごとに、『暴虐、滅亡』と叫ぶ」と苦しみを訴えている。語りたくないことを語らせられる苦しみを訴えているのである。
エゼキエルが語るのも同じ破滅の言葉なのである。事情はすでに良く知られたところであって、前回も述べたが、繰り返しをいとわず語るならば、ユダの主立った人々はエホヤキン王とともに人質としてバビロンに引かれていった。これはバビロンの政策としてはユダの反逆を抑制する措置であるが、神の御心にそって言うならば、悔い改めを要求したもう徴しである。ユダはこの打撃によって神に立ち返らなければならない。ところが、本国に残った人も、バビロンに捕らわれた人も悔い改めない。神は同じ時に、エルサレムにはエレミヤを起こし、バビロンにはエゼキエルを起こして、悔い改めを促したもうたが、人々は悔い改めず、捕囚は間もなく解放される。エジプトと軍事同盟を結べば、バビロンを牽制することができる、と考えた。こうして、ついにエルサレムは滅亡し、残りのほとんどはバビロンに捕らわれねばならなくなる。2章10節に、「悲しみと、嘆きと、災の言葉」というのはそのことである。捕らわれ人に希望を持たせる言葉が喜ばれるし、預言者自身もそう語りたかったのは言うまでもないが、エゼキエルはもっと悪くなる、と語ったのである。
しかし、これを預言者の悲劇という人間ドラマとして描きあげることには意味がない。これは人間のドラマではない。神が救いのために何をなさるかをここで見なければならない。我々の思いを預言者の内面に向けず、神の救いの歴史に向けなければならない。
神が人間に警告を発したもう時、徴しによって悔い改めを促すこともされるが、徴しでなく御言葉によって悔い改めさせるために、御自身の使いを人間の中に遣わされる。預言者は人間であるが、人間の立場を代表するのでなく、神の代弁者として語る。それは全く困難な苦渋に満ちた業である。これが一生涯続くのである。
しかし、神はその預言者を捨て置くことなく、一生涯、力を与えて支えたもう。そのことの約束が預言者の召命の重要な部分になっている。あとで3章8、9節で聞く通りである。
さて、神は「あなたの口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」と言われた。巻き物を食べるのは象徴的なことである。エゼキエルは毎回巻き物を食べて語ったのではなく、最初の一回だけである。これは要するに神から与えられた言葉を語るということの象徴である。自分の言葉を語るのではない。だから、何を語ろうかと思い煩うには及ばない。また、これは預言者が自分の裁量で教えるのでなく、教えよと命じられたことだけを教えるということを示す。
巻き物とは言葉を見える形に表すものである。言葉を書き留めるのは、石に刻むか、巻き物に書くかしかなかった。我々は列王記下22章に記された事件を思い起こす。ヨシヤ王の第18年に、神殿の修理中、恐らく石の下からであろう、一つの巻き物が発見された。大祭司ヒルキヤがこの巻き物を書記官シャパンに渡し、シャパンがこの巻き物を王の前で読むと、王は衣を裂いて悔い改めた。それは巻き物が神の言葉であったからである。(続く)
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渡辺信夫(わたなべ・のぶお)
1923年大阪府生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。文学博士(京都大学)。1943年、学徒出陣で敗戦まで海軍服役。1949年、伝道者となる。1958年、東京都世田谷区で開拓伝道を開始。日本キリスト教会東京告白教会を建設。2011年5月まで日本キリスト教会東京告白教会牧師。以後、日本キリスト教会牧師として諸教会に奉仕。
著書に『教会論入門』『教会が教会であるために』(新教出版社)、『カルヴァンの教会論』(カルヴァン研究所)、『アジア伝道史』(いのちのことば社)他。訳書にカルヴァン『キリスト教綱要』『ローマ書註解』『創世記註解』、ニーゼル『教会の改革と形成』『カルヴァンの神学』(新教出版社)、レオナール『プロテスタントの歴史』(白水社)他。