1936年、静岡県浜名郡雄踏町に生まれた袴田巖さんは、1959年に上京し、プロボクサーとして活躍。その後、自らが従業員として勤務していた静岡県清水市の「こがね味噌」会社で専務一家4人の殺人・放火事件が発生。その後の8月18日に同事件の容疑者として逮捕され、連日長時間の取り調べを受けて「自白」。1968年9月11日に静岡地裁で死刑判決を受けた。1976年に東京高裁は控訴を棄却、1980年に最高裁も上告を棄却し、死刑が確定した。
それから約4年後の1984年のクリスマス・イブに、巖さんは獄中で教誨師の志村辰弥神父からカトリックの洗礼を受けた。獄中で聖書を読んでは祈っていたという巖さん本人の希望により、「無実の死刑囚・袴田巖さんを救う会」はキリスト教関係者への働きかけを始め、1992年1月には、幸枝さんの夫でカトリック清瀬教会員の門間正輝氏が代表に就任、現在に至っている。
1981年に弁護団側は静岡地裁に再審請求をしたが、1994年、静岡地裁は再審請求を棄却。1992年に東京地裁へ申し立てた人身保護請求も同地裁と東京高裁によって棄却された。2008年に弁護団は第2次再審請求を静岡地裁に申し立てた。
門間幸枝さんは再審決定後の静岡地裁前での集会で、「今日を迎えることができました。本当にありがとうございました」と語った。
「このことを(第1審で合議制により死刑判決を書いた静岡地裁の元裁判官である)熊本典道先生にお電話することになってましたので、お電話しました。先生は何も言わないで笑ってました。そして私は泣いてました。『先生、どうしますか?』って言ったら、『どんな気持ちですか?』って聞いたら、熊本先生、言葉が不自由なんですね。でも、時間がかかりましたけれども、『こ・れ・か・ら・だ』って言いました。『これからだ』と言いました」
「(熊本先生は)『許されなくてもいい。でも巖さんに直接会って、謝りたいんです。許されることではない。しかし、許されなくてもいい。でも、巖さんに直接会って、謝りたい』(と言った)。それがもう間近になってきたので、『先生、生きなければなりません。先生、生きててください』って言ったら、『わかりました』って言ってました。みなさん、熊本先生と巖さんを会わせましょう」と呼びかけた。
そして、袴田巖さんのことを心配して亡くなったその母親をはじめとする今は亡き支援者たちや弁護士の名前を挙げ、「ほんとにここで一緒に(再審開始決定を)迎えたかったです。あの・・・すみません。本当に・・・。天国で喜んでいると思います」と涙声を詰まらせながら語った。
その上で、集会に集まった支援者たちに対し、「もう再審。無罪です、みなさん。無罪(判決)に向かって、もう一息頑張りましょう」と力強く訴えた。
門間さんは再審開始の決定直前、午前9時から静岡地裁前で開かれた支援団体の集会で、「再審開始のみを願ってここへやってまいりました。日本の刑務所は秘密だらけです。人間の尊厳を中心にした刑務所、そして司法・政治にしなければなりません。袴田巖さん48年。これはギネスブックに載ったほどの本当に長い長い、決してほめられることのない結果ですが、(日本は)世界一、人権後進国だということです。みなさん、必ず声を上げましょう。この人権後進国の日本の夜明けを迎えなければなりません。袴田巖さんがもし再審開始になれば、その夜明けを迎えることができます。みなさん、頑張りましょう」と力を込めて訴えていた。(続く:「(3)ゴーチェ神父『カトリック信者だから応援ではなく、人間として手を差し伸べて』」へ)