「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる」(イザヤ3:1)。エルサレムとユダというのは、神がお選びになった聖なる場所であり、神の言葉の中心地、恩寵溢れるところなのです。神は、彼らの心を新しい信仰に目覚めさせるために、彼らが自らの支えとして依り頼んでいるものを取り除くと言われるのです。「すべて頼みのパン」「すべて頼みの水」とあるのは、人間存在の基本的な必要物を指す言葉です。神の恵みを忘れた人々は、そのような基本的な必要が、ただ何となく自然に口に入ってくるものであるかのごとくに考えていたのでしょう。
飽食の時代と言われる今日、私どももいつしか、物に対するありがたさを忘れつつあるのではないでしょうか。一粒の米、一滴の水。私たちは、これをさほど尊いものとは感じません。しかし、その一滴の水があるかないかによって死ぬか生きるかが決定づけられていく、その極地に立たされたとき、人は、一滴の水がお金で買えないほど尊いものだと知るのです。
しかし、イスラエルの民らは、預言者の警告に耳を貸そうとはしません。かえっていっそう自らを高くするばかりです。「主は仰せられた。『シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている』」(イザヤ3:16)。ルターはこのところを、「女たちはゆっくりと、しゃなり、しゃなりと歩いている」と訳したのだそうですが、その姿の中に、神の恵みによって生かされている姿はその片鱗だに見ることができません。
この聖句をリビングバイブルで読むと、現代人の姿を更に身近なものにしています。「神様は、お高くとまったユダヤの婦人をさばきます。彼女たちは気取って歩き、鼻をつんと高くし、くるぶしの飾り輪をちゃらちゃら言わせ、男の気をひこうと人ごみの中で流し目を使います」と。
このような人間を支えているものは、一瞬にして崩れ去る虚栄虚飾でしかありません。パウロが言う「木、草、わら」の支えでしかありません。そのような支えは、神のさばきの前に一瞬にして取り除かれてしまうのです。「神様はその頭をかさぶただらけにし、裸にして人々のさらし者にします。もう二度と、これ見よがしに外を歩けません。・・・香水の香りは消え、体からは、吐き気をもよおしそうな匂いがただよいます。・・・美貌は跡形もなくなり、あるものといえば恥と屈辱だけです・・・」(リビングバイブル、イザヤ3:17〜24)
ところでここには、支えを除かれた民らが支えとなるものの必要を感じはじめ、求めるようになることが語られています。本当の支えとなるのは神以外にないはずです。ところが彼らは、見当はずれなところに支えを求めていくのです。「そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。『あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ』」(イザヤ3:6)と。果たして彼は、その要請を受けて世直しのために立ち上がってくれるのでしょうか。彼は惜しみなく犠牲を払い、正義と真実をもって乱れた世を治める者となるでしょうか。次を読むと、なさけない答えが返ってきているのを見ます。「その日、彼は声を張りあげて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にしてくれるな』」(イザヤ3:7)と。
これが、人間なのです。彼は勇気を持って立ち上がるどころか、全く逃げ腰なのです。
イスラエルが日の出の勢いで栄えているときだったら、その上げ潮に乗って首領の栄誉を求める者はいくらでも名乗り出たかも知れません。しかし、今その繁栄は風前の灯火のごとく没落の一途をたどりつつある状況の中、何の利益も栄誉も得られなくなるときに首領となって犠牲を払うものはいないと言うのです。
自己中心的で他人のことなぞ眼中になく、自分の幸福だけを追い求めてやまない世の中。何という暗く悲しい時代ではありませんか。国が栄え、その栄光が世界に輝いているようなときには先を競って首領になりたがる者はあっても、それが逆転して弱くなり始めると、国を捨てて逃げる人はあっても、これを犠牲を払って守りぬこうとする者はいない。イザヤは、そういう人間のエゴイズムを見ているのです。
ところでこのことは、私どもの生活と無関係ではありません。教会に不信仰が入り込んで来るとき、このような事が起こる可能性があります。
今日の教会には、迫害ということは考えられません。しかし、もし仮にそのようなことが起こった場合、どれだけの人々がそれに耐えて立つことができるか。教会に大勢の人々が集まってきて、俗な言葉で言えば景気がよいとき、そのような教会の牧師であり、役員であり、会員であることは、大きな誇りであり、喜びです。しかし、ひとたび嵐が起こり、問題に遭遇し、教勢が衰えたりするとき、その試練を信仰をもって受け止め、それを乗り越えることができるでしょうか。そこにしっかりと留まって、信者としての責任を最後まで果たすことができるでしょうか。
面倒な問題が無く、全てが順調に運んでいるときには何を頼まれても「いいですとも」と笑顔で応じる人であっても、いったん困難な雲行きを見るや、イザヤが言うように「私は医者にはなれない。私を民の首領にはしてくれるな」というようなことになってしまうのです。
どうしてそんな事が起こるのか。その人には、「ここぞ」と言う大切なときに役に立ちうる、真の支えが確立していないからです。イエス・キリストの十字架と復活の福音が、真にその人の支えとなっていないなら、ここ本番というとき、その本領を発揮することができないのです。
では、どうしたらよいのでしょうか。
まず第1に、「自分の力」で立っていると考えないことです。自分で立っていると思うなら、主はその支えを打ち払われるでしょう。パウロは「立っていると思うものは倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10:12)と警告しました。イスラエルは神の支えなしには立てないはずですのに、自分で立てると思い上がりましたので、神がその支えを取り払われたのです。自分一人で立っていると思うほど危険なことはありません。
第2に覚えたいのは、神が事を行わせてくださるということです。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる」(ピリピ2:13)とあります。「みこころのままに・・・」とあるように、全てを神の意に添うてさせていただきたいとの姿勢。そして、祈りの実践です。
第3に必要なことは、つぶやいたり疑ったりしないことです。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」(ピリピ2:14)とある通りです。
その昔、イスラエルの人々がモーセに率いられて出エジプトし、シナイの荒野を旅したとき、その歩みは疑いとつぶやきの連続でした。そのため彼らは、シナイの荒野をさまよい、40年を費やし、ヨシュアとカレブのみが他の子孫らとともにカナンの地に入ることができたのです。イスラエルの先祖たちは、荒野で死んでいったのでした。モーセでさえ、カナンの地には入れなかったのです。
私どもの前途をはばむ最大の敵は、つぶやきと疑いです。
支えを除かれる神は、同時に、信じて依り頼む者のためには強力な支えとなってくださるお方なのです。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)など。