しかし、わたしは・・・あなたのために祈りました
ルカの福音書22章31~34節
[1]序
一週一週、一日一日の歩みを主なる神の恵みに応答し歩みを続けて行きます。今回から4回は、以下の予定です。
①ルカ22章31~34節「しかし、わたしは・・・あなたのために祈りました」
②ルカ22章35~38節「しかし、今は」(Ⅰ)
③ルカ22章39~46節「祈っていなさい」
④ルカ22章47~53節「しかし、今は」(Ⅱ)
①と③は、祈りについてです。主イエスご自身に祈られている恵みの事実。同時に、主イエスご自身に祈るように勧め命じられている事実を心に刻みたいのです。
②と④は、「今」、つまり「時」についての洞察です。祈りと時・歴史について聖書が指し示す豊かな意味を、私たちが悟り、主イエスに従い進めと求められています。
[2]「シモン、シモン。見なさい。サタンが」(31節)
(1)「シモン、シモン。見なさい」
28~30節に直接続いて。弟子としての恵みを軽んじたり無視したりしないように、恵みに答え進む道を明示。
①「シモン、シモン」
シモン・ペテロについて、22章54~62節(「三度わたしを知らないと」)、ヨハネ21章15~23節(「わたしを愛しますか」)を通しても聖書に聞き続けます。ペテロにとり主イエスを知ること主イエスを愛するとは、どのような事実を意味するのか。そして私たちにとってはどうか。真に聖書に聴従したい。
シモン・ペテロは弟子の群れ(31節、「あなたがた」)の一人、ある意味で弟子を代表しています。ペテロに現実なことは他の弟子にとっても現実なのです。
二度続けての呼びかけについては、8章24節、10章41節、13章34節、使徒の働き9章4節、22章7節、26章14節参照。とても大事なことを伝えるしるし。
②「見なさい」
赤信号。十分な注意を払うよう求めています。
(2)「サタンが」
①サタンを軽視、無視する危険。8章12節、22章3節注意。サタンの策略の一つは、サタンの存在と働きを軽視、無視させることです。
②サタンを過大視する危険。もう一つの策略は、過大視させることです。主イエスのことよりサタンのことばかり話したり、注意を払ったりさせることは、まさに罠です。サタンの限界、縛られている事実をはっきり見抜くべきです。10章18節、「イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました』」。
[3]「しかし、わたしは・・・あなたのために祈りました」(32~34節)
(1)「わたし」・主イエスが中心。そのことが群れ全体と私たち各自の心、生活・生涯に現実となるために聖霊ご自身の助けが必要です。私たちは、聖霊ご自身の助けを求め続けるのです。
①「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(32節)。
②主イエスが見通すペテロの現実。「しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(34節)。
(2)シモン・ペテロは
①「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」
主イエスが中心です。しかし「だからあなたは」と、ペテロにも主イエスに祈られている者としての責任・役割があります。
「だからあなたもまた」と強調されています。主イエスはペテロを知り抜いておられる上で、なお兄弟を力づける役割を与え期待なさっておられます。
「力づける」については、Ⅰテサロニケ3章2、13節、Ⅰペテロ5章10節参照。
②「シモンはイエスに言った。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております』」(33節)。
ペテロは自分のことのみに関心を払うだけ。他の弟子たちに対する配慮は、ここには全く欠けています。また自分の覚悟を頼り、主イエスの祈りを必要としている現実を認めていないのです。この事態が、ゲッセマネの園での姿(45節)や54~62節に見る、三度主イエスを否むことと深く関係していると推察されます。
[4]結び
(1)サタンについて
少なくとも、ヨブ記1、2章、エペソ人への手紙6章10~20節を手引きに考える必要があります。そこを通し教えられる二つの点に注意すべき。
①無視しない。
②過大視しない。
ではどうしたらよいのでしょうか。自分の一切に頼らず、自分の弱さを自覚し、戦いの厳しさを認め、祈りを中心とする神の武具を身につけることです。
主イエスご自身も祈りによって、ペテロに対するサタンの働きに対して戦われています。まして私たちが祈りを軽視したり、怠って良いわけがありません。
(2)「しかしわたしは」と、はっきり語られる主イエスのことばを通して、ペテロまた弟子のすべてについて判断すべきです。
主イエスご自身からすべてを見るのです。主イエスを中心に万物が成り立つ事実に基づき、そのように万物を見るのです。「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」(コロサイ3章11節)。そしてこの基盤に立ち、今回特に教えられることは、ペテロの自分についての判断からではなく、主イエスがペテロのため、弟子たちのために祈られている事実から、ペテロや弟子たちについてまた私たちについて判断すべきだ、この一事です。
では、主イエスはペテロのため、どのような祈りをささげられているのでしょうか。大切な手掛かりがあります。ヨハネの福音書17章です。主イエスの祈りの内容を示す、この箇所を今回じっくり味わうようにお勧めします。ヘブル人への手紙7章25節を心に刻みたいのです。
今私たちは自分の祈りの生活についてどのように判断し、実践すべきなのでしょうか。33節のペテロの道でしょうか。それとも32節に明示されている、主イエスご自身が指し示す道でしょうか。そうです。私たちは主イエスに祈られているから、励まされ支えられて祈るのです。その生活を進もうとする時、日々の実践、そして週ごとの祈祷会は軽視できません。まして無視などできません。まず一歩は、特定の人のため祈り始めることです。そして祈り続ける。祈り、それがサタンの攻撃に打ち勝つ、主イエスが備えてくださっている恵みの手段、武器なのです。
最後にもう一度、エペソ6章10節以下を。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。