朝の祈りの継続
献身して聖書学院で五時から早朝祈祷会、鹿児島、網走更に学院の七年の奉仕の基礎となった。学院の奉仕と、鳥羽教会の後鹿児島に派遣された。鹿児島教会では高校生や大学生高校の先生が朝の祈り会に来られた。
鹿児島教会で開拓伝道二年目の後半のことであった。近所の青年が訪ねて来た。教会から数キロの所に、ラサール高校があった。彼はその高校の出身で、北九州の大学の学生であった。肝臓を悪くして帰郷中とのこと、卒業の時友達からいただいた聖書を読んでいるとのことであった。彼はイエス・キリストを救い主として受け入れ教会に熱心に来るようになった。私も彼の家に行きご馳走になったりした。叔父さんを訪ねたこともあった。四月の全国大会も近くなった。鹿児島弁を覚えたりして、今年も宣教に打ち込みたいと思った。最初は子どもとの交わりが多く二人の大人のクリスチャンだけであった。教会に来る人達もおきて、楽しくなって来た。
そんなある日、電報が届いた。三十年たった今も取ってある。
鹿児島から網走へ
「テンニンニモツマトメテコイ、ホンブ」という内容だった。教会に電話はないので近所の電話をお借りして本部にかけた。
「転任先がまだ決まっていないが、聖書学院迄荷物を送るように」とのことであった。きっと「先生移らないで欲しい」と止めてくれるのではないかと、恐れ恐れ話したら、「神様が一緒です。先生安心して行ってください」とクリスマス頃来られた青年が言われた。彼が中心になって、餞別を集め、敷き布団を買ってくれ、そこに「神は愛なり」と書いてくださった。皆に送られて鹿児島を後にした。アブラハムのようにどこに行くのか分からずに二年間奉仕した地に別れを告げた。風呂屋の中学生の息子さんが受洗したので無料の券をいただいて入浴でき感謝した。
春の全国大会に出席し、任命を受けた。北海道の網走教会だった。長年、初見司郎、喜代先生が奉仕していたが、聖書学院の奉仕のため茨城に来られることになった。
その後釜に推薦されるとのことだ。初見先生は大会のとき私の証を聞かれた。その体験談を心にとめておって下さった。円熟した牧師が私を認めて下さった。その時、私は二十八歳であった。
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