今回は、第3ヨハネ書の本文全体の1~15節を読みます。
あいさつ
1 長老の私から愛するガイオへ。私は、真理の内にあなたを愛しています。2 愛する者よ、あなたの魂が幸いであるように、あなたがすべての面で幸いであり、また健康であるようにと、私は祈っています。3 きょうだいたちが来て、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれたので、私はとても喜んでいます。事実、あなたは真理の内に歩んでいるのです。4 私の子どもたちが真理の内に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。
「長老」と名乗っている人物が誰であるかについては、諸説あります。第2ヨハネ書も同様な名乗りで書き始められていますが、両者は別人であるという説もあります。けれども私は、第3ヨハネ書を書いているのは、第2ヨハネ書を書いている長老と同一であり、それはヨハネ福音書のほとんどを書いた「愛弟子」の晩年における自称であると考えています。
「愛弟子」、そして晩年の「長老」が、ヨハネ共同体の核となっていた指導者であり、彼が共同体内の諸教会に書き送った、恐らく数多くの手紙のうちの2通が、第2ヨハネ書であり、第3ヨハネ書であるというのが、私の自説です。第1ヨハネ書は、その弟子の手によって執筆された文書だと考えています。
当時の教会は家の教会でしたから、第2ヨハネ書は「選ばれた婦人」(第2ヨハネ書1節)の家の教会に、第3ヨハネ書はガイオの家の教会に宛てて書いたものでしょう。「選ばれた婦人」の家の教会に宛てた第2ヨハネ書では、「偽の巡回宣教者を避けなさい」との内容が、ガイオの家の教会に宛てた第3ヨハネ書では、「真理の巡回宣教者をもてなしなさい」との内容が伝えられています。
長老は、ガイオについて「真理の内にあなたを愛しています」と書き出し、また「あなたが真理に歩んでいる」と続けています。これは、第2ヨハネ書の「あなたがたを真理の内に愛しています」(1節)、「あなたの子どもたちの中に(中略)真理の内に歩んでいる人がいる」(4節)と酷似しています。
第2ヨハネ書と第3ヨハネ書は、この「真理」と「愛」を大切にしている手紙です。これは、イエス様の言われた「私は道であり、真理であり、命である」を受けているものでしょう。この場合の「道」とは、神様の愛を通す道であり、私たちはその愛を受けて互いに愛し合う者となるので、「愛と真理」を大切にしている手紙ということは、上記のイエス様の言葉を受けていると言い得るわけです。
では、真理とは具体的に何を示しているのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架による罪の赦(ゆる)しであると思います。神様は愛のお方であると同時に、義なるお方でもあります。私たちの罪を見逃すことはなさらないのです。しかし、その私たちの罪のために、イエス様が十字架にかかって赦しを与えてくださいました。十字架は、愛を具現したものであると同時に、「赦しという真理」において、義をも具現しているのです。ですから「愛と真理」は、「愛と赦し」と言い換えることもできましょう。
3節の「きょうだいたちが来て」というのは、巡回宣教者たちのことを指しているのでしょう。巡回宣教者たちが、ガイオの家の教会から長老の所に巡ってきたということだと思います。そして彼らは、「ガイオの家の教会の人たちは、十字架による愛と真理の内を歩んでいる」と、長老に告げたということだと思います。
ディオトレフェス
5 愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。6 彼らは、教会の集まりであなたの愛について証ししました。どうか、神にふさわしいしかたで、彼らを送り出してください。7 この人たちは、御名のために旅立った人たちで、異邦人からは何ももらっていません。8 ですから、私たちはこのような人たちをもてなすべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。
9 私は教会に少しばかり書き送りました。ところが、その頭になりたがっているディオトレフェスは、私たちを受け入れてくれません。10 だから、私が行って、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は口汚く私たちを罵(ののし)るばかりか、きょうだいたちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
この手紙が書かれたのは、ディオトレフェスの行為が問題となっていたからでしょう。彼が、巡回宣教者たちを受入れようとしなかったのです。前回お伝えしましたが、この人がガイオの教会の人であったのか、他の家の教会の牧者であったのかは分かりません。伝えられていることは、「頭になりたがっている」「きょうだいたち(巡回宣教者たち)を受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出して」いるということです。
長老は、ディオトレフェスのこういった態度を非難して、巡回宣教者たちを受け入れることを、ガイオと彼の家の教会の人たちに求めています。彼らを受け入れてもてなすことは、「真理のために共に働く者となる」(8節)としています。
パウロは、「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ローマ書15章7節)と書いています。ここで「真理のために共に働く者となる」と書かれているのも、イエス・キリストが十字架によって愛と真理を示して、私たちを受け入れてくださったことを表したように、私たちも他者を受け入れる者となることが、真理のために働く者となるということでしょう。
デメトリオ
11 愛する者よ、悪に倣わず、善に倣いなさい。善を行う人は神から出た者であり、悪を行う人は神を見たことのない者です。12 デメトリオについては、あらゆる人が、また真理そのものが証ししています。私たちもまた証ししています。そして、あなたは、私たちの証しが真実であることを知っています。
続いてデメトリオという人の名前が出されます。この人は恐らく巡回宣教師の一人でしょう。ことによると、この第3ヨハネ書を長老からガイオの所に運んだ人物かもしれません。長老はガイオに、彼を受け入れてもてなすことを勧めています。
結びの言葉
13 あなたに書くことはたくさんありますが、インクとペンで書こうとは思いません。14 すぐにでも会って親しく話し合いたいものです。15 あなたに平和がありますように。友人たちがあなたによろしくと言っています。そちらの友人たちに名を呼んでよろしく伝えてください。
この結びの言葉は、第2ヨハネ書の結びの言葉と似ています。しかし、第3ヨハネ書は「名を呼んで」という言葉が書かれているのが特徴です。これは、イエス様が「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(ヨハネ福音書10章3節)と言われたことをほうふつとさせる言葉です(ハンス・ヨーゼーフ・クラウク著『EKK新約聖書注解XXIII/2 ヨハネの第二、第三の手紙』179~180ページ)。ヨハネ共同体においては、イエス様が残されたこの言葉を、慣用的に使っていたのでしょう。
執筆の最後に
今回をもって、「ヨハネ書簡集を読む」は終了いたします。「ヨハネ福音書を読む」に続く連載でしたが、ヨハネ福音書とヨハネ書簡集のつながりに、私自身が引き込まれてしまいました。
次回からは、旧約聖書の「コヘレトの言葉(伝道者の書)」に関するコラムを執筆する予定です。2018~19年にも一度連載していますが、その後新しい聖書翻訳が出たこともあり、私自身も新しく書き直すつもりで取り組みたいと考えています。(終わり)
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