日々の生活の中で、私たちはどのような考えを持って生きているでしょうか。いつも高尚なことを考えながら生きているというよりは、もっぱら本能的に生きているような気がします。その場の感情や欲望に任せて、自己満足のために生きていることが多いです。
聖書が私たちに求めているのは、神と人とに愛される考えを持つことです。「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」(ルカ2:52)
1. ののしり裁く
御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。(ユダ9、10)
「エリコに面したモアブの地の・・・ネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。・・・あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。・・・メリバテ・カデシュの水のほとりで・・・不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現さなかったからである。あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へ入って行くことはできない」(申命記32:49〜52)
「こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼を・・・葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない」(申命記34:5、6)
約束の地とは、出エジプトした民がヨルダン川を渡って、それぞれの部族が勝ち取るべき土地でした。モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放する働きを、神の力で成し遂げました。しかし、イスラエルの民は荒野をさまよう生活の中で不平不満をモーセと神に漏らし、神の怒りによって滅ぼされました。
紀元前1500年、モーセはヨシュアにリーダーを継承させました。モーセはメリバの泉で神に栄光を帰さなかったことで約束の地には入れず、ネボ山で死んで葬られましたが、墓は見つかりませんでした。
「イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである」(ルカ9:28〜31)
イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて山に登り、祈っていると、変貌して光り輝きました。その時、モーセとエリヤが現れてイエスの最期について共に話し合いました。モーセは神によって死んで葬られましたが、その墓はなく、1500年後にエリヤと共に現れてイエスと話し合ったのですから、エリヤと同じように天に昇ったと思われます。
「私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます」(1コリント4:4、5)
事の善悪を正しく裁く方は主キリストです。主がご再臨されるまでは、感情的に先走った裁きをしてはいけません。裁き合ってはいけない理由は、裁く人も裁かれる人も、事の真実と本心が主によって明らかにされ、神によって各人の善悪が裁かれるからです。
9節を、ギリシャ語原典と引用聖句を用いて解くと「御使いのかしらミカエルは、モーセの体は神に打たれ、死んで昇天できないと訴える悪魔と論じ、言い争ったとき、先走って相手をののしり、裁くことはせず、『主があなたを戒めてくださるように』と神の裁きに委ねました」となります。
10節を解くと「御使いのかしらミカエルでさえ、悪魔の訴えに対して言い争ったとき、裁きを主キリストに委ねたのに、あなた方は自分には理解できないと指導者たちを感情的にそしり、理性の無い動物のように行動し、感情的本能の中で滅びに至るのです」となります。
2. 本能と滅び
ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。(ユダ11)
「神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです」(1ヨハネ3:10〜12)
アダムとエバの子どもが、カインとアベルです。神へのささげ物において、兄カインの本心は悪く、弟アベルの本心は神に誠実でした。カインは、アベルが神に祝福されたことをねたんでアベルを殺してしまい、人類初の殺人事件が起こりました。カインは本能に生きて悪魔の子どもとして育ち、アベルは信仰を重んじて神の子どもとして正しく育ったのです。
「バラクは当時、モアブの王であった。・・・(同族の占い師)バラムを招こうとして使者たちを遣わして、言わせた。『今ここに、一つの民がエジプトから出て来ている。・・・この民をのろってもらいたい。・・・そうしてくれれば、たぶん私は彼らを打って、この地から追い出すことができよう」(民数記22:4〜6)
「しかしバラムはバラクの家臣たちに答えて言った。『たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう」(同18、19)
「朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった」(同21、22)
「(レビの子孫である)コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して・・・名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。『あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」(民数記16:1〜3)
「地はその口をあけて・・・コラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。・・・生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。(同32、33)
11節をギリシャ語原典と引用聖句を用いて解くと、「災いよ、あれ。①彼らそしる者たちは、カインのように悪魔の子どもで行いが悪く、子孫まで呪われ、②彼ら利益を求める夢見る者たちは、バラムの迷いに陥り、③コラのように神のしもべにそむき、呪われて滅びました」となります。
3. 養う
彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。(ユダ12、13)
12節をギリシャ語原典と聖書知識を用いて解くと「集会で、指導者をののしったり、信徒同士裁き合ったり、偽預言をしたり、本能のまま行動する彼らは、教会の愛餐会を壊す者で、恐れげもなく酒に酔って騒ぐ者で、自分たちの腹が満たされるために愛餐会を開催します」となります。
13節を解くと「彼らは、成り行き任せの軽い人生を生き、信仰が無いので御霊の実を結ばず、神からのいのちが無いので根も幹も枝も枯れた終焉(しゅうえん)間近、恥が表面化する波乱の人生、神の民だが消え去る星です」となります。
まとめ
御使いのかしらミカエルでさえ、主のしもべモーセの体の取り扱いに対して悪魔と言い争ったときに、裁くことはせず、主の裁きに委ねたのだから、教会内の指導者をむやみに裁き、そしる者たちは、本能の中で滅んでゆくのです。「先走った裁きをしてはいけません」と聖書は戒めています。
正しい信仰者をねたんで呪う者は、悪魔の影響を強く受けて呪いを受けます。自己利益を期待して偽預言をする者は、いのちを脅かされます。神のしもべに逆らい、自分も同じく神に選ばれていると争う者は、地獄からの影響を強く受けて呪われます。
教会でののしり裁き合う者や、本能的に悪い行いをする者、上に立つ権威をむやみに批判して裁く者は、愛餐会を破壊し、自分の欲を満たす者です。このような人々に、神は滅びをもたらされます。
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