3月の「施しの日」は大盛況で、今までにないほど人が集まり、特に「子ども劇場」には、入りきれないほどの子どもが押しかけた。
ニコラスは、食事の方は料理長トロピモと家政婦スントケをはじめとする使用人たちに任せておき、自分はルキオとオルンパ夫妻と共に、子どもに見せる芝居に熱中した。子どもたちは、お面をつけた劇が始まると拍手喝采し、特にニコラスが登場するとキャーキャー声を上げ、大喜びだった。
おやつを食べ、全てのプログラムが終わると、子どもたちはドヤドヤと小屋から出た。ニコラスは、いつものように門の所に立ち、子どもたち一人一人にシケル銀貨を一枚ずつ持たせて帰した。
「ニコラス様」。その時、小声で呼ばれて振り返ると、いつも彼が心にかけている子――アデオダートスが立っていた。
「ニコラス様はお父さんもお母さんもいなくてかわいそうだね。うちのお母さんがね、ゆうべニコラス様のためにお祈りをしたんだよ」。彼はそっと小声で言った。「ありがとう」。ニコラスは、いじらしくなって子どもを強く抱きしめた。
「私のお父さんとお母さんはね、今は天国の神様のもとで幸せに暮らしているから大丈夫。君の家族はみんな元気なの?」すると、子どもの顔は悲しそうに曇った。「お父さんは、いくら働いてもお金に困っているもんだから、お酒ばっかり飲んでるの。そうして時々僕たちをぶつの」。「そうか・・・ちょっと待ってて」
ニコラスは、この子と家族のために何かしてやりたいと思い、家に入ると、金庫から金貨を一枚しのばせてきて、それをアデオダートスの小さな手に握らせた。「これ、お父さんにあげて。仕事がうまくいくようにお祈りしていますと伝えてね」。子どもはペコリと頭を下げると、駆けていった。
ところが、その日以来さっぱりこの子どもは姿を見せなくなった。1カ月が過ぎ、4月の「施しの日」になっても見かけなかった。ニコラスは、何か胸騒ぎがして、あちこち歩き回って尋ね歩いた。しかし、この一家を見かけたという者はいなかった。
彼がとぼとぼとアルテミス神殿のあたりまで引き返してきたときだった。人相の悪い男がいきなり飛び出してきて、行く手をさえぎった。
「やい!ニコラスの若旦那。あんたは金持ちで、勝手気ままに暮らしているから、貧乏とはどういうものか分からんだろう。あんたは貧乏人に金をやって、それでいいことをしたと思ってるんだ。この偽善者め」
そして、男はぺっと唾を吐きかけた。「おまえは、金と娯楽で、本当に苦しんでいる人間が助けられると思っているのかよ」。それから、泣きながら話し始めた。
「おれは大工をしていた。生活は楽でなかったが、気立てのいい妻とかわいい子どもに恵まれ満足だった。ところが、仕事仲間から賭け事に誘われてから人生が狂っちまった。おれは賭け事にのめり込み、気が付いたら生活費も、わずかな蓄えもなくなっていたんだ。しかし、妻はひと言も苦情を言わず、自分の持ち物を売ったり、内職をしたりして家計を助けてくれた」
「おれは目が覚めた。もう二度と賭け事に手を出すまいと誓い、真面目に働いた。そして、ようやく平穏な生活に戻ったと思いきや、ある日息子がピカピカ光る一枚の金貨を握って帰ってきたじゃないか。そしてニコラスという大金持ちがくれて、何に使ってもいいと言ったとか。あれこそが悪魔のささやきだったんだ」
男の目は、すさまじい憎悪に燃えた。「おれはその金を使って、今まで失った金とチャンスを取り戻そうと考えた。そうして、また賭け事に夢中になったんだが、どういうわけか、賭けても賭けても負けてしまうんだ。その挙げ句、身ぐるみはがれた末、たちの悪い仲間に借金までしてしまったんだ。するとこの仲間は『金をすぐ返せないなら、訴えて牢にぶち込んでやる。それが嫌なら、耳を貸せ。いいことがあるぞ』と、世にも恐ろしいことをこの耳にささやいたんだ」
男は、猛獣のような声を上げた。「その計略に引っかかって、おれは最低のことをやっちまったんだ」。「何をしたんです?」「おれは、優しい妻と、あの子――アデオダートスを奴隷に売っちまったんだ」。「何ですって? 何ということを・・・」ニコラスは、くたくたとくずおれた。
それから程なくして、アデオダートスの父親は、断崖から身を投げ、自殺したのだった。
*
<あとがき>
私たちはしばしば、最善を尽くしたつもりでも、それが反対に良くない結果をもたらした――という体験をし、打ちひしがれることがあります。
ニコラスは、養父なき後も、「施しの日」のスケジュールをこなし、貧しい人々を招いて食事を振る舞い、劇場で観劇をさせ、彼らの子どもたちを集めて寸劇を見せるなどしていました。そして、彼らの手にそれぞれシケル銀貨を持たせて帰すことに満足をしていました。
しかし、この慈善行為がとんでもない悲劇をもたらしたのでした。アデオダートスという少年の家は貧困のどん底にあり、父親は酒飲みでしばしば家族に暴力を振るっていました。
同情したニコラスは、一枚の金貨を持たせて少年を帰します。ところが父親は金貨を手にしたことで、しばらく遠ざかっていた賭け事に手を出して莫大(ばくだい)な借金を作り、心ならずも妻子を奴隷に売ってしまいました。そして自ら自殺して果てたのです。
ニコラスは絶望のどん底に落ちる思いでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。