主はまたモーセに言われた、「アロンとその子たち、およびイスラエルのすべての人々に言いなさい、『主が命じられることはこれである。すなわちイスラエルの家のだれでも、牛、羊あるいは、やぎを宿営の内でほふり、または宿営の外でほふり、それを会見の幕屋の入口に携えてきて主の幕屋の前で、供え物として主にささげないならば、その人は血を流した者とみなされる。彼は血を流したゆえ、その民のうちから断たれるであろう。これはイスラエルの人々に、彼らが野のおもてでほふるのを常としていた犠牲を主のもとにひいてこさせ、会見の幕屋の入口におる祭司のもとにきて、これを主にささげる酬恩祭の犠牲としてほふらせるためである。祭司はその血を会見の幕屋の入口にある主の祭壇に注ぎかけ、またその脂肪を焼いて香ばしいかおりとし、主にささげなければならない。彼らが慕って姦淫をおこなったみだらな神に、再び犠牲をささげてはならない。これは彼らが代々ながく守るべき定めである』。(レビ17:1~7)
キリストが十字架で死なれたことで、私たちの罪は赦(ゆる)され、病も癒やされました(参照・イザヤ53:5)。では、私たちが神の義とされた真実(参照・2コリント5:21)を体験できていないとすれば、それを妨げているものは何でしょうか。
イエスは、この地上での生活には苦難があると語られました。その現実を受け入れることが大切です(参照・ヨハネ16:33)。つまり、神のご計画を全うするプロセスには、苦難が待ち受けているのです。もし苦難がないとすれば、それは御心の道を歩んでいないということです。
また、挑戦や課題に直面したとき、それを自力で解決しようとする姿はないでしょうか。神様が願われているのは、私たちがそれを神様に委ねることです。そうしてこそ、私たちは揺らぐことなく前進し続けることができるのです(参照・詩篇55:22、1ペテロ5:7)。
神様は、私たちに代わって戦ってくださいます(参照・1サムエル17:47)。しかし、神様が働かれる方法を知っておくことが大切です。神様はまず私たちの中で働かれ、そして私たちを通して働かれるのです。つまり、神様はまず、私たちに敵対する相手にではなく、私たちのうちの戦いで勝利できるように導かれます。
時には、相手のひどい言動を赦すように導かれることもあります。ギリシャ語の聖書にある「aphiémi(赦し)」という単語には、それを許可して苦しむという意味が含まれます(参照・マルコ11:25)。あえて苦しむことを選択するとき、私たちには自由があります(参照・ヨハネ8:32)。なぜなら、苦しみを選択することは、相手のひどい言動にとらわれてそれを何とかしようとする選択を放棄することだからです。
神様があなたを通してすでに始められていることは何でしょうか。その選択と決断が実を結ぶまで、諦めずに前進し続けることが大切です。周囲の意見に耳を傾ける必要があることも時にはありますが、常にではありません。御声に従い、導いていただきましょう(参照・ピリピ1:6)。
今日も主の御言葉にとどまり、神の義として歩み続けましょう。御言葉の約束が、私たちを通して満ちあふれるほどに現されますように。私たちはキリストのような者とされているのです(参照・1ヨハネ4:17)。主にあって安らぎ、前進し続けましょう。
GOD BLESS YOU!
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