昨日、一昨日と使徒行伝を読み、パウロの嵐のような伝道の道を心は共に旅した。なぜこれほどに険しい道のりを神様はパウロや弟子たちにお許しになったのだろうか。そして、たけだけしくこの世の試練に立ち向かうパウロの燃えた心に、私の心も熱くなった。
私たちの道は、お花畑で遊んでいるばかりではいられない。神様は私たちを試練という熱い炉に投げ入れられ、私たちは炎の中で身もだえながら、神によって精錬される。
安穏とばかり暮らしていたら、私たちに与えられた御霊の熱さにも気付くことはないかもしれない。私たちに与えられた御霊とは、燃える炎のごとく熱いものである。苦難や試練、火の中で試されては御霊の熱さに気付くことがある。
試練のたびに負けながら、負けながら、それでも私たちクリスチャンは信仰にあって勝利している。信仰者の道は、深い闇の中にあったとしても、かすかにともる光がある。体のうちに御霊の炎がともり出し、周りを明るく照らし出し、神様のご臨在に守られる。
「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう」(1コリント3:11~13)
使徒行伝は、神様に喜ばれる働きがどんなものであるのか、証ししているようだった。もちろん私たちの時代とはわけが違う。しかし私たちもこの時代、この環境と境遇、この家族をはじめとした関係図の中で、できる戦いがおのおのにある。
目立った仕事でなくてもよい。小事に忠実な者には大事を任せるとおっしゃってくださる神様である。私は小さく燃えるような、主婦でいたい。私の抱える統合失調症もいつ再発し、あの恐ろしい隔離部屋に入るかも分からない。それでも小さく燃えて、弱いけれど強い主婦でいたい。
ほのかに聖霊様の炎を胸にともして台所に立っていたい。愛する夫と義父母に料理をし、洗濯をし、石鹸を作り、夜中には夫を起こさないようにパソコンを開いて破れだらけの信仰をつづり、下手な裁縫をしていたい。
イエス様を信じる者は、皆戦士であるのだろう。御霊の炎をともし、この暗い世界に王である方が来られることを証しして、福音の鐘を鳴らして練り歩く、誰もが戦士であるべきだ。
私たちが頂いている御霊は、なまぬるいものではない。炎のごとくに熱い御霊を頂いていることを思い出し、目覚めていたいと思う明け方である。
「花咲く野原も 血に染む谷も 導かるるまま 主と共に行かん ひと足ひと足 主にすがりて たえずたえず われは進まん」(聖歌588「主と共に歩む」)
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ところざきりょうこ
1978年生まれ。千葉県在住。2013年、日本ホーリネス教団の教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、千葉県に移住し、日本バプテスト連盟花野井バプテスト教会に通っている。※旧姓さとうから、結婚後の姓ところざきに変更いたしました。