今回は、20節19~31節を読みます。
聖霊授与
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 誰の罪でも、あなたがたが赦(ゆる)せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
復活されたイエス様は、弟子たちに姿を現したと伝えられていますが、その弟子が誰であったのかについては特定できません。全ての福音書で違う人たちが伝えられていますし、第1コリント書15章5節以下で伝えられているメンバーも一致していないようです。しかし、男性が中心になっているように思えます。
4つの福音書が伝える最初の邂逅(かいこう)は女性たち(ヨハネ福音書ではマグダラのマリアのみ)とのものでしたが、2次的に知らされた人たちは男性たちのみであるようですし、第1コリント書におけるメンバーも男性たちのように受け取れます。こうしたところは、聖書の時代の女性の位置付けが影響しているようにも思えます。
初代教会には、実際のところは女性の指導者がたくさんいたのだろうと思います。それは、ヨハネ福音書だけを読んでも、イエス様の母マリア、サマリアの女性、マルタとマリア、マグダラのマリアなどに、後代の指導者の姿を見ることができます。しかし、ヨハネ福音書において、イエス様の復活を伝える20~21章には、マグダラのマリアから男性の弟子たちに復活が伝えられた後、女性は1人も登場していません。
今回の19~23節も、名詞や冠詞の格からすると、集まっていたのは男性のみであったように思えます。「週の初めの日」ですから日曜日であり、ユダヤ人が安息日の土曜日に持っていた集会とは別の集まりであったはずですから、新しい時代の「主の日の礼拝」がここにスタートしたといってもよいでしょう。
イエス様はそこで、十字架に釘打たれた手と、兵士に槍(やり)で突かれた脇腹をお見せになります。第68回でお伝えしましたが、槍で突かれたとき、イエス様の脇腹からは、血と水が出ています。その血と水の意味については、第65回をお読みいただければと思いますが、復活後のイエス様はさらに弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました。つまり、イエス様は人々に「血と水と霊」をお与えになったのです。
ここで注目すべきであり、その意味が問われていることがあります。それは、この「血と水と霊」という言葉が、第1ヨハネ書5章6~8節において、「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです。証しするのは三者で、霊と水と血です。この三者の証しは一致しています」と、そのまま伝えられていることです。
本コラムは、今回を入れて後3回で終了予定ですが、その後はヨハネ書を読むコラムを継続する予定です。その際には、ヨハネ福音書とヨハネ書の共通性などを考察していきたいと思いますし、この「血と水と霊」の共通性についても、私の考えをさらにお伝えしたいと思います。
聖霊の実
弟子たちは、イエス様によって聖霊を与えられました。聖霊授与というと、使徒言行録2章で伝えられている聖霊降臨、ペンテコステの出来事が脳裏に浮かぶかもしれません。しかし、ヨハネ福音書においては、イエス様が弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われたこの場面が、聖霊降臨の出来事であるとしてよいと思います。
そうしますと、このヨハネ福音書版の聖霊降臨で、何が伝えられているかが大事になってきます。まず、息を吹きかけた後にイエス様が言われた言葉は、「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」でした。この言葉には、教会の指導者となる弟子たちへの、サクラメンタル(典礼的)な「罪の赦し」の委任があったと思います。しかし、それだけでなく、聖霊を受けることによって罪の赦しに向かわされることが、何よりも大切なことなのだろうと思います。
十字架につけられる前の最後の説教において、イエス様は「その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」(16章8節)と言われました。つまり、聖霊が授与されることによって罪と義と裁きが明らかになり、さらにそのかなたに赦しを見いだすということでしょう。
聖霊降臨とは、赦せない私たちに、助けを与えてくださる方が来られた出来事なのだと思います。聖霊の実は「赦し」なのです。赦しは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制につながっていきます。パウロがガラテヤ書5章22~23節において、「霊の結ぶ実」をそう具体的に述べていますし、この復活の顕現の場面においても、平和(19、21節)と喜び(20節)が強調されています。
双子のトマス
24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」 26 八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28 トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」
復活されたイエス様が弟子たちに最初に現れたとき、彼らの一人であるトマスはそこにいませんでした。他の弟子たちは、「私たちは主を見た」と言っていました。「主を見た」という言葉は、マグダラのマリアのそれ(18節)と同じで、これはイエス様に対する信仰告白です。しかし、復活の日にいなかったトマスは、仲間の弟子たちの言っていることを信じることができませんでした。
「八日の後」と伝えられていますが、これは最初の日を含んだ数え方ですので、週の初めの日、すなわち日曜日のことです。この日、トマスをも含む弟子たちが再び鍵のかかった部屋にいると、そこに復活のイエス様が現れたのです。すると、最初信じなかったトマスは、「私の主、私の神よ」という信仰告白をしたのです。復活の最初の日曜日に続く、主の日の礼拝であることを思わされます。
ところで、トマスはディドモと呼ばれていました。双子を意味する言葉です。では、双子のもう一人はどこにいるのでしょうか。聖書には出てきません。トマスを双子というならば、登場してもよさそうです。私はこれについて、以前どこかで読んだ解釈に深く同意しています。それは、「トマスの双子の片割れとは、実はあなたなのだ」という解釈です。私自身もトマスのように信じられなかった者であったからです。
ヨハネ福音書の執筆目的
30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである。
この部分については、第1回でお伝えしています。ヨハネ福音書が、①「イエスは神の子メシアであると信じるため」であり、また、②「信じて、イエスの名によって命を得るため」という2つの目的を持っているということでした。ですから、多くの人々のメシア(信仰)告白を伝え、彼らの永遠の命を得た生き方について伝えてきたのです。どのようにしてそれらが伝えられてきたかは、最終回となる次々回でまとめてみたいと思います。(続く)
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