今回は、19章14節b~24節を読みます。このうち、14節b~20節は、前々回に示した集中構造分析の中心部になりますので、その分析に従って聖句を対称形で示し、各箇所のタイトルを再度提示したいと思います。集中構造分析では、中核はXと表示する慣例になっていますので、中核の17節はそうしています。
H ユダヤ人の王 14b ピラトはユダヤ人たちに、「見よ、あなたがたの王だ」と言うと、15 彼らは叫んだ。「連れて行け。連れて行け。十字架につけろ。」 ピラトが、「あなたがたの王を私が十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「私たちには、皇帝のほかに王はありません」と言った。
I 十字架につける 16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを人々に引き渡した。こうして、人々はイエスを引き取った。
X 自ら十字架を背負う 17 イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
I´ 十字架につける 18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人を、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
H´ ユダヤ人の王 19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
アイロニーが頂点に達する集中構造中心部
前回、ピラトがイエス様を指して「この人を見よ」(ラテン語でエッケ・ホモ)と言ったことをお伝えしましたが、これはピラトがイエス様に敬意を払っているように思える言葉です。今回の箇所の冒頭で、ピラトはさらに、イエス様を「見よ、あなたがたの王だ」とユダヤ人たちに示していることが伝えられています。これは「この人を見よ」をより誇大に復唱しているもので、ピラトに神様の意志が働いているというアイロニカルなことなのです。
ヨハネ福音書が伝えるピラトによる裁判から葬りまでの場面は、神様が始終主導権を持って進めているといってよいでしょう。ピラトは、イエス様を裁判官の席に着かせ(前回参照)、さらにイエス様が「ユダヤ人の王」であることをユダヤ人たちに宣言したのです。
しかしユダヤ人たちは、「十字架につけろ」という言葉を繰り返します。そして、「あなたがたの王を私が十字架につけるのか」と言うピラトに対して、祭司長たちは「私たちには、皇帝のほかに王はありません」と言い放ちました。R・A・カルペッパーは、この場面でアイロニーが最高潮に達するとしています(同著『ヨハネ福音書文学的解剖』240ページ参照)。
祭司長をはじめとするユダヤ人たちは、ここにおいて、十戒の第1戒である「あなたは私のほかに、何ものをも神としてはならない」を犯しているのです。汚れなく過越(すぎこし)の食事をするためにピラトの官邸に入らなかった彼らが、ユダヤ人の習慣で始まり(18章28節)、その習慣で終わろうとする(19章40節)「ピラトに関する記事」の中心部において、最も大切な戒めを犯していることが伝えられているのです。
ピラトは、イエス様を十字架につけさせるためにユダヤ人たちに渡します。私は、ここにもアイロニーがあると思います。過越祭を前にして、彼らは死刑囚という「汚れ」には関わりたくなかったと思います。死刑の執行は、ローマの兵士たちにやってほしかったのではないでしょうか。しかし、ここにも神様の力が働いて、ユダヤ人たちが自らの手でイエス様を十字架につけることになり、清い体で祭りに臨むという彼らの習慣が反故にされるのです。
17節は、ピラトに関する記事(18章28節~19章42節)の集中構造分析において、中核に当たります。それは、十字架上のイエス様の言葉ではなく、イエス様の死の瞬間でもなく、イエス様がご自身で十字架を背負って歩まれる場面なのです。
共観福音書では、キレネ人シモンがイエス様の十字架を背負ったことが伝えられています。イエス様の十字架の話を描いた子ども向けの紙芝居には、最初はイエス様が自ら十字架を背負い、途中でシモンがそれを引き受けるというものがあります。そうだったのかもしれません。しかし今回、私は「ヨハネ福音書の記者は何を伝えたかったのか」という視点のみで考察したいと思います。
それは、イエス様ご自身が十字架を背負うことによって、全人類の罪を引き受けられたということです。ですから、ヨハネ福音書の記者は、それを伝えるためにもピラトがユダヤ人たちにイエス様を引き渡したと伝えているのです。ローマの兵士に引き渡したのであれば、誰かが十字架を運ぶために徴用されたと伝えなければならないでしょう(マルコ15章21節参照)。
しかしヨハネ福音書は、イエス様はユダヤ人たちに引き渡され、イエス様本人が十字架を背負い、ユダヤ人たちによって十字架につけられたと伝えています。実際にどうであったのか詳細は分かりません。最初にイエス様が背負っていた十字架を、キレネ人シモンが肩代わりしたのかもしれませんし、そこにローマ兵が入り込んでいたかもしれません。
ですが、ヨハネ福音書はそういったことを伝えているのではなく、「ユダヤ人たちに引き渡され、イエス様本人が十字架を背負い、ユダヤ人たちによって十字架につけられた」という出来事が、神様の御手の中で行われていたということを伝えているのです。それは、「真理」であったでしょう。前々回、ピラトの「真理とは何か」という問いに対する答えについて、「対称箇所を精読することで答えを見いだすことは可能ですが、必ずしもそれが唯一の答えというわけではありません」とお伝えしました。
これについて、日本オリベットアッセンブリー教団のテキスト『キリストの十字架』の34日目「真理とは何か?」には、「ヨハネは、このピラトの問いに関する答えを何も記していません。しかし数多くの解説者が、この後に続く出来事すべてが、ヨハネの答えであると指摘しています」と書かれています。
私はこの見解にも同意しています。そして特に、集中構造分析における最も中心的な部分である、中核の17節をはさんだ16~18節が、まさに「真理」であるとも考えるのです。それは、イエス様がご自身で十字架を背負い人々の罪を受け取ったということです。
ピラトはさらにイエス様の罪状書きにも、「ユダヤ人の王」と書きます。ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書いたということは、世界に対する布告でしょう。やがて行われる弟子たちの世界宣教に先立って、イエス様が王であることをピラトが世界に布告したのです。これもアイロニーといえるでしょう。
ピラトの布告が確定する
21 ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。22 ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
ピラトが3カ国語で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いたことに、祭司長たちは怒ります。そして、「『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と迫ったのですが、ピラトはそれを受け付けませんでした。ここにおいて、イエス様が王であるとする公の決定が確定したといえるでしょう。神様のご意志によってそうさせられたのです。
詩編の言葉の成就
23 兵士たちはイエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。24 そこで、「これは裂かないで、誰のものになるか、くじを引こう」と話し合った。それは、「彼らは私の服を分け合い、衣をめぐってくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
イエス様の着ていた紫の衣は、そこにいた4人の兵士によって分けられました。しかし、下着は分けることができなかったので、くじ引きでもらい手を決めることになりました。これは、詩編22編18~19節の「私は骨をみな数えることができる。彼らは目を留めて、私を眺め回す。私の服を分け合い、衣をめぐってくじを引く」が成就したものです。
この詩の作者は、服がくじ引きされることだけでなく、十字架上のイエス様が眺めまわされることも預言していたのです。さらに、22編2節は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」であって、これは共観福音書が伝えているイエス様の十字架上の言葉です。イエス様の十字架上の出来事が、神様のみ旨の成就であって、詩編22編全体からそれが分かることが読み取れるのではないでしょうか。(続く)
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