日本では、いまだなじみのないキリスト教葬儀ですが、葬儀の多様化が進み、ネット検索によってキリスト教葬儀の内容や礼儀作法について調べる人が多くなりました。それに伴い、この数年さまざまなキリスト教葬儀に関する解説文が、ウェブ上に掲載されるようになりました。
これらの解説の多くは、一般の葬儀社がキリスト教葬儀の受注を目標に掲載していることもあり、内容が偏り、明らかな間違いも多く、キリスト教に対する誤解を生む要因になっています。
今回、その中から、キリスト教葬儀における「お悔やみの言葉」についての解説を取り上げ、所感を述べたいと思います。
キリスト教葬儀では「お悔やみの言葉」はNG?
「お悔やみ」は故人の死を悲しむという意味で、遺族の悲しみに共感し、同情する気持ちを表します。日本の葬儀においては、遺族を慰める前提となる大切な気持ちと考えられています。
ところが、ネット上の多くの解説文には、キリスト教葬儀は、故人が神様のもとに召されたことを喜ぶ式なので、「お悔やみ申し上げます」など、悲しみを表現するあいさつは不適切と書かれています。これらの極端な解説文は、聖書が遺族の悲しみに寄り添うことを否定し、死を喜ぶように勧めているかのような誤解を与えているように思います。
確かに、キリスト教信仰には、悲しみを乗り越え、慰めを与える力があります。しかし、遺族の悲しみに寄り添う気持ちがなければ、慰めを与えることは到底できません。「お悔やみ」は、キリスト教葬儀においても重要な役割を担うものです。
涙を流さずにはおられない葬儀の現場
私たちが実際の葬儀に対応する中、悲しみのない葬儀を経験することはありません。故人は神様の御許に召されたのですが、遺族は、やり場のない深い悲しみの中におられます。彼らを前にして、司式者や参列者が喜ぶことなどあり得ず、むしろ、遺族の心の痛みに共感し、涙を流すことが多くなります。
先日は、急逝した祖父の葬儀に参列したお孫さんたちが、大好きだった祖父の死を悲しみ、葬儀の間中、大粒の涙を流し続けていました。私は司式に対応していましたが、彼らの姿に心を動かされ、思わず声を詰まらせてしまいました。
また別の葬儀では、最愛のわが子を失った両親が、泣きじゃくるその子の兄弟を励ましながら、棺の前で懸命に祈る姿が多くの人の涙を誘っていました。
私自身、両親や死産の孫の葬儀にも対応しましたが、実に悲しい体験であり、思い返すたびに涙が出てきます。
このように、葬儀における悲しみは非常に大きく、神様の御旨に沿って遺族に寄り添い、心の痛みを共に担うことこそ、キリスト教葬儀の最も大切な要素になると考えています。
イエスは涙を流された
イエス・キリストは、親しくしていたラザロの死を嘆き悲しむ人々の前で、涙を流されました。その後、ラザロを蘇生させる奇跡を現されましたが、人々の悲しみに共感し、心の痛みを分かち合ってくださいました。
イエスは涙を流された。(ヨハネの福音書11章35節)
また、パウロはローマ人への手紙の中で、お互いの気持ちに寄り添い、共に喜び、共に泣くことの大切さを伝えています。
喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。(ローマ人への手紙12章15節)
寄り添うことなしに宣教はあり得ない
キリスト教葬儀は遺族に対する、効果的な福音宣教の場であることは確かです。しかし、遺族の悲しみに共感し、寄り添うことなく福音を伝えても、宣教の言葉はむなしく、遺族の心に届くことはないでしょう。
残念ながら、日本におけるキリスト教葬儀には、遺族の悲しみに寄り添うふさわしいあいさつの言葉が定着していないように思います。上記に述べたネット上の記載もそれを阻んでいます。
今後、仏教葬儀の中で伝統的に使われる「お悔やみ申し上げます」をそのまま使うことも視野に入れ、さらに優れた遺族への思いやりに満ちた言葉を、キリスト教葬儀文化の中に築いていきたいと願っています。
天国を仰ぎ見るキリスト教葬儀は、遺族の悲しみに寄り添い、心の痛みを共に担う神様の愛が満ちる現場です。今後拡大する日本のキリスト教葬儀が、日本人の心を支えるふさわしい品格を持つことができますように・・・。
大切な人を失った心の暗闇に、私たちの心も共に向かうことができますように・・・。
あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルカの福音書6章36節)
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