今回は、18章38節b~19章14節aを読みます。ここは、前回提示した集中構造分析では、19章21~27節の対称箇所になっています。
イエス様が直接身代わりとなって生かされたバラバ
18:38b ピラトはこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て来て言った。「私はあの男に何の罪も見いだせない。39 ところで、過越(すぎこし)祭には、誰か一人をあなたがたに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」 40 すると、彼らは叫んで、「その男ではない。バラバだ」と言った。バラバは強盗であった。
この個所は、集中構造分析では、イエス様が母を愛弟子に委ねたことを伝える箇所(19章25~27節)と対称になっています。集中構造というのは、対称箇所が共通する内容になっているのが特徴です。そこで、バラバとイエス様の母の間に共通点があるのではないかと思い、考察してみました。
ヨハネ福音書では、イエス様の母、すなわちマリアが登場するのは2回だけです。1回目は2章1~12節のガリラヤのカナでの話、2回目が上記の箇所です。ヨハネ福音書では、マリアという固有名詞は一切出てきません。しかし、イエス様の母がマリアであることは自明なことですので、以後マリアとします。
さて、バラバは4つの福音書全てに登場する人物です。過越祭には誰か一人を恩赦にする慣例がありました。そのため、群衆に対してピラトが、重犯罪者のバラバか、ユダヤ人の王として連れてこられたイエス様のどちらを釈放してほしいかを問い、群衆が「バラバだ」と叫んだために釈放された人物です。
元ヤクザの牧師たちによって結成された「ミッション・バラバ」という伝道団体があります。団体名は、上記の重犯罪者バラバに由来するそうです。そのため私は、バラバは釈放された後、イエス様をメシアと告白して宣教者になったのではないかと考えていました。
そう考えると、19章25~27節で伝えられているマリアとの共通点が浮かび上がってくるのです。イエス様から「見なさい。あなたの母です」と言われた愛弟子が、「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」というのは、愛弟子が伝道を始める教会にイエス様の母を引き取ったということでしょう。それはマリアが初代教会において宣教の働きを担っていたことを示唆しています。
また、使徒言行録1章14節の「彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」からも、マリアが教会の柱となっていったことが読み取れます。マリアのこれらのことと、バラバの釈放後の人生を考えて重ね合わせると、両者には宣教者としての共通点が見いだせるのではないかと考えていました。
しかし、スウェーデン人作家ペール・ラーゲルクビストの小説『バラバ』を読み、この考察は少し違うかもしれないと思わされました。この作品は小説ではありますが、釈放後のバラバについて、かなり説得力のある伝え方をしています。
それでも、この本によるならば、バラバの生涯の残る年月の間、バラバが「どこにいて何をしたかは、だれも正確なことは知らない」(同書97ページ)のです。確かにバラバのその後については、聖書に記述がないのはもちろん、伝承さえもほとんど残っていないようです。ですから、彼が宣教者になったことを証明するものは何もありません。
けれども、ラーゲルクビストが「放火罪で告発されたキリスト教徒一同が集められていた。そのなかにはバラバもいた」(同書155ページ)と書いているように、彼がキリスト教徒となったことは推察できるでしょう。4つの福音書にバラバという名前があること自体が、それを物語っているように思えます。彼がその後キリスト教徒になったのでなければ、4つの福音書全てに名前が残るとは思えないのです。
そうなりますと、前回の集中構造分析で、この箇所のタイトルとしてお伝えしているように、「イエス様と最も強い関係の『バラバとマリア』」という共通点を見いだすことができるように思えます。
イエス様の十字架は、私たち人間にとっては、「イエス様が私たちの罪の身代わりとなって命を救ってくださるもの」ですが、バラバは、イエス様が直接身代わりとなることで命を救われた、たった一人の人物なのです。つまり、バラバは罪の赦(ゆる)しにおいては、イエス様と最も強い関係にあるといえましょう。
一方、マリアは、処女降誕においてイエス様を産んだ肉親です。十字架上のイエス様が、マリアに対しては愛弟子を「見なさい。あなたの子です」と、愛弟子に対してはマリアを「見なさい。あなたの母です」と言われたのは、それまで持っていた強い母子関係を、愛弟子に委託する意味があったのではないかと思います。つまりマリアは、肉の関係においてはイエス様と最も強い関係であったといえましょう。
バラバとマリア、この2人について私は、「イエス様と最も強い関係を持った信仰者であった」といえるのではないかと考察しています。ヨハネ福音書の記者の執筆目的がそこにあったかどうかはっきりとは分かりませんが、集中構造のこの対称関係は、そんなことを考えさせるのです。
ただ、バラバとマリアそれぞれが後に宣教者となっており、そこに共通点が見いだされるという考えも、捨てきれないものではあります。
エッケ・ホモ(この人を見よ)
19:1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の衣をまとわせ、3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。4 ピラトはまた出て来て、言った。「聞くがよい。私はあの男をあなたがたのところに引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見いだせない訳が分かるだろう。」 5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の衣を着て、出て来られた。ピラトは、「見よ、この人だ」と言った。
この個所が、19章23~24節と「服」というキーワードで対称になっていることは、一目瞭然だと思います。加えてここでは、茨の冠をかぶらされたことが伝えられています。冒頭に掲載したムンカーチ・ミハーイの絵画は、そんなイエス様の姿をよく描き表していると思います。
この絵画は、ラテン語で「エッケ・ホモ(この人を見よ)」といわれています。5節のピラトの言葉「イドゥー・ホ・アンスローポス」が、ラテン語聖書ではそのようになっているということで、日本語では「この人を見よ」といわれることが多いようです(聖書協会共同訳では上記のように「見よ、この人だ」と訳しています)。「エッケ・ホモ」を題材にしている絵画は、かなりたくさんあるようです。
「エッケ・ホモ」という言葉には、何か聖性を感じます。イエス様に死刑を宣告しようとしているピラトが、なぜこのような言葉を口にしたのでしょうか。それは、私が5回にわたるポンテオ・ピラトに関する回で伝えたいことの一つである、「この裁判で裁かれているのはイエス様ではなく、ピラトであり、裁いているのは神様なのだ」ということを意味することでもあります。
ヨハネ福音書の記者は、一貫してこの視点でピラトの裁判を伝えていると思います。茨の冠や紫の服も、それを示しているものでしょう。ヨハネ福音書の記者は、イエス様は王であり、この世に勝った者であることを伝えようとしているのです。冠や紫の服は王を象徴しているものなのです。
そして、ピラトが口にした「エッケ・ホモ」を、聖性を感じさせる言葉として伝えているのではないかと思うのです。私たちはこの言葉を、イエス様を褒めたたえる言葉として使っています。例えば、『讃美歌21』の280番「馬槽(まぶね)のなかに」の4節「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたる」のようにです。
押しのけられるピラト
6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたがたが引き取って、十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見いだせない。」 7 ユダヤ人たちは答えた。「私たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、9 再び官邸に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。10 そこで、ピラトは言った。「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」
11 イエスはお答えになった。「神から与えられているのでなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 12 それで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
ピラトは権力者ですが、ここを読むと群衆にもイエス様にも押しのけられ、あたふたしている印象を受けます。そもそも、自身が官邸の外と中を行ったり来たりしていることにそれを感じてしまいます。総督だったらば、もっとどっしりとしていてもよさそうなものです。
そして、「私はこの男に罪を見いだせない」などと言って、イエス様を2度(6節と12節)釈放しようとするのですが、群衆の声に押されてそれをすることができませんでした。ピラトについては、他の福音書を読み合わせても、度量の小さい男であるように思えてしまいます。
裁判の席に着いたのは誰か
13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。14a それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。
群衆の声に押されたピラトは、イエス様を外に連れ出し、裁判の席に着かせます。この「裁判の席」(ベーマトス)は、裁判官の座る席であり(『ギリシア語新約聖書釈義事典(1)』256~257ページ)、このままに読むならば、イエス様が裁判官となるという不思議な意味になります。
新改訳2017は、13節を「ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブライ語でガバダと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた」と訳しています。これですと、裁判官の席に着いたのはピラトであり、話の流れに合っています。
なぜこのようにさまざまな訳になるのかというと、「席に着く」(カシゾー)という言葉が、自動詞的(席に着く)にも、他動詞的(〈介助などをして〉席に着かせる)、使役的(〈命令などによって〉席に着かせる)にもとれるからです。聖書協会共同訳と新共同訳は使役的にとり、新改訳2017は自動詞的にとって訳しているのです。
私は、ここは聖書協会共同訳と新共同訳の「席に着かせた」が良いと考えています。それは、この裁判はピラトが行っている裁判ではなく、イエス様が神様の意志を実行している裁判だからです。ピラトにしてみれば、わざと裁判官の座る席にイエス様を着かせ、「見よ、あなたがたの王だ」と示すことによって、イエス様をからかう意図があったのかもしれません。
しかし実は、そこで神様がこの裁判を行っていたという、奇(くす)しい出来事がこの裁判であったというのが私の理解です。前述したように、私は、ヨハネ福音書の記者はピラトの裁判を一貫して神様が裁く裁判として描いていると理解して読んでいます。(続く)
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