朝鮮半島にカトリック信仰が芽生えた初期の頃から、カトリックへの弾圧は激しさを極めた。そのような困難の中で初期のカトリック信者たちは、中国の司教に司祭の派遣を求めた。この要求に応え、1795年に中国人司祭が密かに招かれると、しばらくの間この司祭は裕福な貴族女性である姜完淑(カン・ワンスク)によって保護された。(第1回から読む)
彼女はカトリック教徒としての共同体生活を始め、独身生活を実践した。ところが当局は彼女を捕えたのだ。彼女は司祭の居場所を白状するように強要され、拷問を受けたが、最後まで司祭の居場所を明かすことはなかった。
しかし当局は、司祭の居場所を突き止め、結局この司祭は逮捕された。彼女と司祭、その他多くの教会指導者たちは、キリスト教を厳しく弾圧する政府によって処刑された。これが後に1801年の辛酉(しんゆう)迫害として知られるようになったものである。これにより李氏朝鮮は、キリスト教信仰を全国的に禁止することとなった。
貴族階級である両班(やんばん)の男性によって始められたにもかかわらず、最初の朝鮮のキリスト教会は、キリストの教えは一部の上流階級に属する人々のためのものではなく、全ての人々のためであることを理解していた。
祖先や家系、姓などによって身分や家柄が分けられ、女性蔑視が強かった当時の階級社会において、初期のキリスト教共同体には女性や異なる階級の人々、さらには賎民とされるアウトカーストの人々も含まれていた。朝鮮半島で教会が植えられた初期の頃、これらの信者たちは、より遠隔地の山岳地帯や島々に追いやられていた。しかしその厳しい迫害や差別にもかかわらず、彼らの信仰は広がりを見せていた。当局はこれに対してさらに警戒を深めたのである。
1866年に始まった丙寅教難(へいいんきょうなん)は、李氏朝鮮時代に公式に記録された最後の大規模迫害であった。これによって推定8千人のカトリック信者が殺害された。一説によると、この数は当時のカトリック教徒の半数以上に及んだとされている。
外国の宣教師ではなく、国内の現地人信者が中心になって産声を上げた朝鮮半島におけるカトリック信仰は、激しい迫害の中を通らされたのである。この地でプロテスタント信仰が始まったのは、まさにこのような時だった。(続く)
■ 韓国の宗教人口
プロテスタント 35・3%
カトリック 9・2%
仏教 23・7%
儒教 2・7%
イスラム 0・3%
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