今回は、15章26節~16章15節を読みます。
真理の霊
15:26 私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう。27 あなたがたも、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである。
5月19日は、ペンテコステでした。ペンテコステは、イエス様の昇天後、エルサレムで祈っていた弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生したことを記念する日です。その日の様子は、使徒言行録2章に詳しく書かれていますが、その41~42節に以下のようなフレーズがあります。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。
聖霊が降ることによって、人々の交わりがなされるようになったのです。つまり、ヨハネ福音書で伝えられているところの「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉が実践されていったということでしょう。ヨハネ福音書では、イエス様が聖霊の働きについて教義的に伝えているといえるでしょう。それに対して使徒言行録では、聖霊が実際に働く様子が伝えられているのです。
イエス様は「真理の霊」が来ると述べていますが、真理とは十字架で死なれて愛を成し遂げられたイエス様のことであり、聖霊がそれを証しすることをイエス様は語っておられます。そして、聖霊に促されることによって弟子たちもイエス様を証ししていったのであり、それらのことを記録しているのが使徒言行録なのです。
ヨハネ福音書における弁護者を送る約束、使徒言行録が伝える聖霊降臨の出来事、そしてそこから始まる弟子たちの活動には、整合性があると思います。それは、聖霊によって人々が愛し合う者たちへと促されていくことにおいてです。
ヨハネ福音書は、13章と15章において「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエス様の新しい戒めが語られた後に、それぞれ弁護者を送る約束が語られていますが、このような順になっているのはなぜでしょうか。
私は、「互いに愛し合いなさい」という戒めを教会でメッセージとして語りますが、「そうは言われても難しい」という応答があり、私自身も「できることではないかもしれない」というジレンマを抱えていることを前回お伝えしました。
「互いに愛し合いなさい」と述べられた後に、弁護者である聖霊が送られることが語られているのは、私たちの「互いに愛し合えない」という現実に対して、「聖霊が働かれることによって互いに愛し合う者たちへとさせられていく」ことを伝えるためなのではないかと私は考えています。ヨハネ福音書における弁護者を送る約束は、そういった観点で読むべきであろうと思います。
愛の共同体の誕生
16:1 これらのことを語ったのは、あなたがたをつまずかせないためである。2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。3 彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、私が彼らについて語ったのだということを、あなたがたに思い出させるためである。初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなたがたと一緒にいたからである。
5 しかし今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている。それなのに、あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない。6 かえって、私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は苦しみで満たされている。7 しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
ペンテコステに誕生した教会は、やがてユダヤ教の共同体から切り離されます。というよりも、16章2節によるならば、追放されるという方が正しいでしょう。イエス様がこのことを語られた時であれば、イエス様はこの地上にまだおられ、追放された人と共にいてくださるでしょう。徴税人や罪人といった社会から追放された人たちと、イエス様は一緒に食事をされました(ルカ福音書15章1~2節)。
けれどもイエス様は、ご自身をお遣わしになった父なる神様のもとに間もなく帰っていかれるのです。もう地上にはおられなくなるのです。ですから、会堂から追放された人たちは、飼い主のいない羊のような状態になってしまいます。けれども、改めて送られる弁護者なる聖霊は、追放された人たちと共にあって、彼らを押し出し、使徒言行録で伝えられているような愛の共同体を形成していくことになるのです。
「『聖霊の働き』とは『愛し合うことの促進』である」と私は考えています。イエス様の教えられた「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めは、口で言うのはたやすいのですが、実行していくのは簡単なことではありません。そのような私たちを互いに愛し合うように促すのが、「聖霊の働き」なのだと思います。パウロが、「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません」(ガラテヤ書5章22~23節)と書いているとおりです。
この世の罪と神の義、そして裁き
8 その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。9 罪についてとは、彼らが私を信じないこと、10 義についてとは、私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること、11 また裁きについてとは、この世の支配者が裁かれたことである。
16章8~11節の言葉は、その前後とは独立しているように思えます。前と後が、「イエス様が去られた後の信仰共同体内部における弁護者なる聖霊の働き」を伝えているのに対し、ここでは「この世に対する聖霊の働き」が伝えられています。それは「この世の罪」を扱っているといえるでしょう。弁護者である聖霊は、イエス様を受け入れようとしないこの世の罪を告発するのです。
裁判において、弁護者(弁護士)は被告側に付くというイメージがあるかもしれません。刑事裁判であればそうでしょう。原告である検察側に弁護士は付きません。けれども、民事裁判では通常、原告・被告の両者に弁護士が付きます。この場合は、そのイメージでよいと思います。弁護者である聖霊は、この世を被告として告発する側に立つのです。
そして、この世は神様の法廷に立たされるのです。そこでは、「神の義」によって裁きがなされます。そこにおいては、イエス様の勝利が宣言されます。次回お伝えしますが、16章33節の「私はすでに世に勝っている」という言葉には、そういった背景があります。次回は、イエス様の勝利について熟考したいと思います。
真理に導く霊
12 言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。13 しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
再び、信仰共同体内部における聖霊の働きについて語られます。弁護者である聖霊は、信仰者を真理へと導きます。前述したように、真理とは、簡潔に述べるならば、十字架で死なれて愛を成し遂げられたイエス様のことです。けれども、「真理とは何か」という問いは、ヨハネ福音書の重要な論題の一つといえるでしょう。ピラトが「真理とは何か」とイエス様に問うたのに対して、イエス様は直接お答えにはなりませんでした(18章38節)。
「真理とは何か」についての考察を詳細に展開することを今回は避け、19章をお伝えする際に熟考したいと思います。ここでは、弁護者である聖霊が、その真理を信仰共同体に教えるということのみをお伝えしたいと思います。そして、それは勝手に語られるものではありません。聖霊は神様から聞いたことを、信仰共同体の信徒たちに伝えるのです。
父・子・聖霊の一体性
14 その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
イエス様は「父・子・聖霊の三位一体性」を語られて、「弁護者を送る約束」の講話を閉じられます。父なる神様が持っているものは、全て子なるイエス様のものであり、聖霊は父と子から受けたものを信仰共同体に教えるのです。(続く)
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