不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(60)
「神聖は不可知ではない」とはいえない?
神について知り得る事柄は、つまり神の力と神聖(神性)は被造物に現れているのだから、われわれ人間もまたそれを知り得るのであり、「私は神を知りませ〜ん」という弁解はできないというのがパウロの言い分である(ローマ書1章18~32節参照)ような気がする。
なるほどと思いつつも、そんな簡単なことではないと多くの人が感じることではないだろうか。世界は呼吸をしている、と書くと何となくカルトっぽいが、要するに自然から呼吸を感じ取ったとしても、それなりに有意義であると思うのであるが、どうであろうか。
とはいえ、その感じ方も、またその解釈も、地域や文化、宗教でそれぞれそれなりの作法があるのではないだろうか。つまり、キリスト教の立場では、神と人間の歴史や、預言や詩編において、またキリストの福音によって示されてきたこと、要するに「言葉」で示されたことが土台になるべきであろう。何でもかんでも「自己」感性が優先するということでは困るように思う。そういう意味でキリスト教はある程度は理性的であるべきだ。
神の霊(神の呼吸というべきか)は全てに宿り得るのだから、神聖を感じる機会はそこら中に存在していてもよいのだが、いやいやそんな簡単なことではない。それが本物かどうかの見極めなど、ほぼ不可能だ。だからといって目に見えるもの、聞こえるものから、「神」について知ることはできないと、いわば現場放棄状態に自分を押し込んではならないのである。
聖書を共有する?
いわゆる「聖書のみ」というのは、権威としての「聖書」のみであって、神は「聖書でしか」知ることができないと、かたくなになるのもどうかと思う。ただし、この世界の諸々の事柄について、その価値は簡単に共有できるものではない。例えて言うなら、私が今日見た夕日の神秘さというのは、あくまで私の体験であって、それを言葉で伝えることはできても、それを誰かのために再現することは不可能なのだ。
私はあえて強調したいのであるが、聖書というものは、共有するには大変に便利なものであって、聖書を用いることによって多くの人と語り合える。聖書を共有するということから一歩も二歩も進んで、聖書によって共存していくというのが信仰共同体の一つの形でもある。とはいえ、私がここで強調したいことは、聖書は共有できるが、共感するには大変難しいものでもあるということだ。
「私は神を知りませ〜ん」という生活態度、人生態度というものは、パウロにはとても不思議であり、不愉快であっただろう。聖書という便利なもの(パウロの時代には新約聖書はまだ存在しなかったとしても、旧約聖書はあった)が、案外と身近にあるのであるから、「なぜ神を知らないというのか。なぜ神を知ろうと思わないのか」とパウロが嘆いたとして、それはそれで当然のことだろう。というようなことは、まあ、現代でもそのまま通用するであろうが・・・。
キリスト教は知られている
神についての無知はともかく、神について全く無関心でいられる人が実際にどれほどいるのか、私には見当もつかない。完全な無関心派というのは少ないと思うのであるが、関心があったとしてもなかなか「知り得ない」というのは当然だろう。というよりも見方を逆転させると、「神についての情報」があまりにも多過ぎて整理できないというのが本当のところではないだろうか。
「われわれは本物のキリスト教を伝える義務がある」と口にする人がいるが、そのような言葉はクリスマスやイースターについて言われる場合が多い。つまり、クリスマスとは何か、イースターとは何か、その本質や意義はまだまだ伝わっていないから、もっと伝えていかなければならないということであろう。いわば偽物のクリスマスやイースターがこの世に氾濫していると心配しているのであろう。
確かにその通りである。かなり怪しげな伝わり方をしているとは思う。しかし、だからこの世で祝われるクリスマスのキリストや復活のキリストは「偽者」ということになるのだろうか。教会が関わっていないなら、キリスト教徒が参加していないなら、それは「偽物」ということになるのだろうか。実のところ、私自身はそうかもしれないと思うところもある。偽物とは言わないが、本物と言うには物足りないのだ。「本物ではないが有意義ですよね」と言えるなら気が楽なのだが、物事はそんなに簡単ではない。どこかにモヤモヤしたものがあるのではないか。
パウロもあえて話題にしたこととして
もちろん、クリスマスやイースターというお祝いを共有していただけるならうれしいことだし、その内容が十分でないとしても「敵対的」な物言いをするのは控えたくはある。私が思うに、この日本においてもキリスト教というものはかなり、また相当十分に伝えられているとは思うのだ。「信者の数が増えない=キリスト教が十分伝わっていない」と解釈すべきではない。
ただ、われわれが不安に思うのは「信仰」を共有できる人が限られているということだ。少なくてもこのままでは、私が属する教会の10年後20年後を憂いたくなるのは事実だ。にぎわっている教会はうらやましい限りだ。ただし、信仰の共有というのもこれまた難題だらけで、むしろ、キリスト教世界の中のいざこざが何とも悩ましいではないか。それは聖書や伝統の理解、解釈に始まり、礼拝の形式の違い、果ては聖書の適応にまで及ぶのである。
長々と書いたが、被造物に現れたとパウロが言う「神の永遠の力と神聖(神性)」をどう受け止めるのか、そしてどのように自らの人生に実現していくのか、それはそれで大激論になるだろうが、でも、考えるべきことに違いないのだ。(続く)
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