今回は9章39節~10章6節を読みます。
羊飼いに例えられるイエス様
クリスマスおめでとうございます。聖書に伝えられるクリスマスの記事の中で、最も印象的なものの一つは、ベツレヘム郊外の羊飼いたちの所に、イエス様の御降誕が伝えられた出来事ではないかと思います。羊飼いたちは、当時の社会では良い地位ではなかったようです。牧草地を求めて転々と移動しなければなりません。そのためには、他者の土地に侵入しなければなりませんから、世間から良く見られるはずはありません。
そういった社会から疎外されている人たちの所に、御降誕が告知されたのです。馬小屋の飼葉おけにおける誕生が、イエス様の十字架への道を示しているように、羊飼いたちへの告知も、イエス様の生涯と、復活・昇天後の教会における「牧者」の働きを示しているように思えます。
新約聖書の中には、イエス様を羊飼いとする記述が多数見られます。一番なじみ深いのは、100匹の羊の例え話かもしれません。羊飼いは、自分の飼っている羊のうちの1匹がいなくなったら、他の99匹を置いてでも探しにいかないだろうかというもので、これはマタイ福音書とルカ福音書にあります。
他方、イエス様を羊飼いとする記事はヨハネ福音書にもあり、今回からお伝えする10章はその中心となるものです。また、21章のよみがえったイエス様が、ペトロともう一人の弟子と語っている記事でも、羊飼いとしてのイエス様が伝えられています。
そして、ヘブライ書13章20~21節においては、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御旨に適うことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」と、天におられるイエス様を「大牧者」として伝えています。クリスマスの羊飼いたちへの告知は、そんなその後のイエス様の姿を象徴しているように思えます。
さて、それでは今回の箇所を読んでみましょう。
9:39 イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41 イエスは言われた。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。
10:1 「よくよく言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2 門から入る者が羊飼いである。3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く。5 しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」
6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
「見える」と言い張る罪
9章38節までは、目を開けてもらった盲人とイエス様の話でしたが、39節からは、目を開けてもらった盲人は舞台から退場し、ファリサイ派の人々とイエス様の対論になっています。そしてそれは恐らく、10章にもつながります。10章6節にファリサイ派の人たちが登場するのを読むならば、9章39節~10章6節は、一つつながりの話であるように思えます。
イエス様がエルサレム神殿の参道において、目の見えない人に出会ったところに話を戻しますと、弟子たちは、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」という問いをしています。それは、罪というものを極めて社会的なものに限定しているように思えます。今日でいうならば、「無賃乗車をした」「万引きをした」というようなことになるでしょう。
もちろん、そういったことも罪であることには違いありませんし、やってよいことでは決してありません。けれども、イエス様がその人とのやりとりを通して明らかにしたことは、見えなかった人がイエス様を見えるようになったということであり、「罪」とは、そのようにしてイエス様を見ることができない状態のことをいうのだということでした。
しかし、ファリサイ派の人々にとって罪とは、「律法を守っているか、破ったか」でしかなかったのです。ファリサイ派の人々は、自分たちは律法を守っているという意識がありますから、その限りでは、自分たちは「見える者」であったのです。ですからイエス様の「見える者は見えないようになる」という言葉にカチンときたのでしょう。
すぐさま「我々も見えないということか」、すなわち「我々も律法を守っていない罪人だというのか」という問いを、イエス様に発することになります。しかし、この問いを発すること自体、彼らが罪を指し示すイエス様が見える状態ではなかったということです。イエス様は「『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る」、すなわち「『我々は律法を守っている善人である』と言うところにこそ、あなたがたの罪がある」と言われたのです。光であるイエス様は、そのことを明らかにする方であったのです。
羊飼いイエス様
10章になりますと、イエス様が、羊との関係を語る者として、ご自身のことを語り出されたことが伝えられています。その詳しい意味については、7節以降をお伝えする次回に回すとして、むしろ今回は、羊と羊飼いの現実的な情景を思い浮かべるのがよいのではないかと思います。
羊は、飼い主のことをよく覚えている動物です。羊飼い以外の者についていくことはしません。また、羊飼いも羊のことをよく知っているとされます。私が牧会している教会は、以前は附属幼稚園を運営しており、そこでは「迷子になった一匹の羊」の話がよくなされました。その羊は「迷子(メイコ)ちゃん」という名前であるというのがその幼稚園の伝統であり、羊飼いは「メイコちゃーん」と言いながら羊を探したと話されていました。羊飼いというのは、実際にこのように羊に名前を付けて呼んでいたようです。
そういった羊と羊飼いの関係性というものが、1~5節において伝えられていると思います。9章で伝えられている目を開けていただいた盲人は、羊が羊飼いに導かれるようにイエス様に導かれ、その姿を見ることができるようになったということでしょう。しかし、そこに一緒いたファリサイ派の人たちは、イエス様の羊になることができず、その話が理解できなかったのです(6節)。
イエス様の御降誕を告知された羊飼いたちも、羊たちに対してそういう感性を持っていた人たちだったと、私は理解しています。だからこそ、天使たちの告知を受けてすぐさま、馬小屋で生まれたイエス様の所に走っていくことができたのだと思います。
さて今回で、今年最後のコラムとなりました。「ルカ福音書を読む」「ヨハネ福音書を読む」とお読みいただきました皆様に感謝申し上げます。イエス様の足跡や教えを、いろいろな角度から味わっていただけましたならば幸いです。そして、どなた様も良き年を迎えられますよう、お祈り申し上げます。(続く)
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