不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(55)
※ 前回「貧しさとは何であるのか(その1)」から続く。
貧しさを問うことは人間関係への問いかけ?
イエスが貧しい人々と共にあろうとしたというのは、事実だと思う。その「貧しさ」とは、お金がないことを意味することはもちろんであるが、お金といっても、それはいわゆる現金という意味ではなく、今日を生き延びるために必要な何かということであろう。
今日を生き延びるために必要なものというのは、パンであり、水(ぶどう酒)であり、家族であり、友人である。こうしたものの何かが欠乏しているという事実こそが貧しさである。「心が貧しい人々は、幸いである」と、イエスはマタイ福音書で語っている。ルカ福音書では「貧しい人々は、幸いである」と、単に「貧しい人々」と表現されている。ルカはあえて「心」を外したのであるが、その深い意味を考察することは私には荷が重い。
心が貧しいというのは、日本語で表現すると「心が汚い、性格が歪んでいる」という悪いニュアンスを感じてしまう。だが、マタイが意図したことは恐らくそういうことでもないだろう。しかし、実際のところは私には分かりようもない。
マタイがあえて「心」を強調したことは、何となく共感できるのであるが、こういう場合には大体のところ「それは心のむなしさ」を表現していると解説される。確かにそれも一理あるのだ。貧しさは身体にも響くが、何より心への負担がものすごい。今日を生き延びるか否かといえば極論になるが、ある程度適切に考えれば、貧しさというのは、せいぜい1週間をサバイバルできるか否かという問題である。最低でもそれくらい生き延びていける確信がないと、人生はとてもつらいものになる。
もちろん、食の安定の上で、住があり、衣がある。当時の人間としてはまずは食料だ。それに加えれば寝床、そして身にまとう何かということだろう。それらの不足というのは、身体はもちろんだが、やはり心に重荷が加わるのだ。そういう意味の心の貧しさというものを考えてみる必要があるだろう。
そして、これは重要なことであるが、衣食住、さらにプラスして医療や介護が大事だとしても、それらを支えているのは自分自身だけではないということだ。そこには、家族や友人また地域の人間関係というものが、とても深く関係しているのである。
招待者で迷う生前葬
というわけで、無理やり人間関係に落とし込んだわけであるが、前回話題にした生前葬に話を戻す。生前葬というのは、見方を変えれば自分の人間関係を見直すチャンスであるといわれている。実際に死亡した場合、義理の親族なども絡むから葬儀はとても複雑になる。そもそも葬儀に誰を招待するか、しないかという話にはならない。
ところが生前葬の場合は、死亡広告を出すことはまずないだろうから、自ずと誰かを招待するという作業が生じる。自らの葬りを誰と過ごしたいのかと問われると、ちょっと困るかもしれない。あまりそういうことは考えないだろうから、ぜひともこの機会に考えてもらいたい。葬儀という非日常において、一体誰に寄り添ってもらいたいかということだ。もちろん生前葬というのは仮想空間にすぎないし、生前葬の後に何年も生きてしまったらちょっと不細工なことにもなるが、それは致し方なしだろう。
イエスは十字架で死ぬつもりだったわけで、そういう場合は特殊な死に方なので、一般的な葬儀は期待できない。聖書によれば、イエスの葬儀らしきものを実行したのはアリマタヤのヨセフだけであったし、遠くから女性たちがその様子を見ていたにすぎない。とても誰かに寄り添ってもらうということにはならなかった。イエスが共にあろうとした人々がそこに集うということは、全く期待できない状況だったのだ。惜しまれ、悲しまれて営まれる葬儀ではなかったのだ。
死を悲しむとは?
「野垂れ死ぬ」という言葉がある。誰にも葬られることなく、野で朽ち果てるということだ。イエスの場合はそこまでひどい状況ではなかったが、かといってその死を葬るという意味においては寂しさがある状況だったといえよう。
われわれは葬るということの本義を知らなさ過ぎる。とはいえ、私も相当にその意味を知らない。別れを告げるという意味では、現代の葬儀はあまりにも短時間過ぎる。埋葬するという意味においては、火葬という方法はあまり有効ではない(自分ごとになるが、火葬された遺骨を見るのは気が滅入るのだ)。キリスト教としては、いったん土に返して復活の時を待つというのがその目的になるのだろうか。
では、火葬はどういう意味付けができようか。早急にちりに返し過ぎではないか。土を通り越してあっさりと屑(しかばね)的な何かに変えられるというのもぞっとするが、これも致し方なしということか。われわれが潜在的に野垂れ死にを恐れるのは、「葬儀なし、埋葬なしの野ざらし状態」に対する嫌悪感であろう。
もっとも、葬儀・埋葬がきちんとなされたら素晴らしい天国行きが決定するというわけではない。キリスト教を含め、どんな宗教もその点は承知しているのであるが、それでも自分自身の死をしっかりと受け止めてほしいという意味で、葬儀・埋葬の「整いを願う」わけであろう。余談ではあるが、61歳にして私はまだ自分の葬儀について具体的なイメージなど一切持てないが。
自らの死が人を悲しませるとしたら、あえてそれを知らせるというのは悪趣味のようにも思えてくるが、それはちょっと違うのではないか。というのも、悲しむという行為そのものは、実はわれわれには必要なことだからだ。悲しむ行為を否定する、あるいはそれを知らないという人間は、恐らく喜ぶということにも鈍感になってしまうのではないだろうか。私たちの死は大いに悲しんでもらったらよいのだ。
ベタニアにて
イエスは自ら生前葬を営んだわけではない。ただ、死を目の前にして自分を支えてくれていた人々と向き合っただけである。それがベタニアの出来事の本意であろう。ここまで生きてきたという事実の確認ということだ。ラザロがいる食卓、マルタが給仕する食卓、そしてそこにマリアにより葬りの用意がされていたということ、その事実が大切なのだ。次回は、マリアがイエスに香油を注いだことについて深掘りしてみよう。(続く)
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