不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(50)
夏に生きる?
日の出に始まり、日の入りに終わるのが一日である。日の入りに始まり、日の出に終わるのが一夜である。普通にいえば、一日というのは日があるうちであって、夜というのは、まあ、おまけ程度のはずなのであるが、実際には夜にこそ人間の本質が現れるのではなかろうか。
現代人は夜をまるまる全部寝ているわけにはいかない。なぜならば、現実的な生活に必要な情報はそのほとんどが夜間に発信されるからである。これはうそであるが、もしも本当にそのように思っている人がいるなら、少し自分の人生を吟味した方がよい。
さりとて、日中を全力疾走でまるまる働くのもつらい。午前8時から午後5時。そのくらいで勘弁してほしい。まあ、現実はそういうことにはならないだろうが。頑張って働こう。
さて、一言で夜といっても、夏は短いし、冬は長い。それは高緯度な地域ほどにその差が大きい。秋の夜長(よなが)といわれるが、これは夜が短い夏から、次第に夜が長くなっていく季節である秋に使われる言葉である。夏の暑さが過ぎ去り、夜が過ごしやすい季節になったという意味合いがあるらしい。これに対して、夏には短夜(みじかよ)という言葉があるようで、こちらは夏の短い夜のはかなさを惜しむ気持ちが込められているとか。これは編集さんからのご指摘。夏の夜長と勘違いしておりました。遊ぶ時間が多いからですかね。いや恥ずかしい。
さて、北海道の夏は夜明けが早い。道東では午前3時にはもう明るくなっている。つまり、ちょっと長酒でもしてしまうと朝になってしまうのだ。そういうわけで夜明けに眠るというのは何度も経験したが、正直に言えば敗北感だらけである。これでもキリスト教徒の端くれであるから、ご来光を拝む派ではない。故に、朝まで飲んで得になることなど何もないのである。
人間の知恵には限りがある
夏といえば蚊取り線香に花火というのが、昭和30年代生まれにとっては定番であった。花火とは地上に再現される星々と表現したらどうであろうか。あるいは、どちらかといえば「地に眠りし諸霊」への慰めか、または眠りを覚ます何かかもしれない。まあ、人間が地上に星々を再現するなどというのは、何ともおこがましい限りではある。もしそれが、神へのアピールを含む「なにがしかの意識」の表れだとしたらなおさらだ。それはもう傲慢としか言いようがない。
夜を過ごすための知恵は、人間の歴史の中でいろいろと発達してきたわけである。花火を上げて「地に眠りし諸霊」にごあいさつということであれば、それはそれで甘美である。しかし、夜を過ごすための太陽を人間が再現できると思っているなら大きな筋違いなのだ。
神から来る何ものかを
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
詩編の言葉である。いくらでも、何とでも解釈できそうな文章なのであえて解釈はしないでおこう。肝心なことは、「下に」ではなく、「上に」ということではないか。確かに「天」という言葉が、空間の上下を表現したものではないということは言うまでもなかろう。ただし、身体論的にいうならば、どういうわけか人間は、うつむくよりも見上げる方が精神的に安定する。手仕事を長く続けるよりも、草原で大の字になって空を観察する方が、気持ちが落ち着くのだ。試していただければ分かることである。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
深い言葉であるが、だからといって説明可能であるとはいえまい。分かったようで全く分からないのが神であり、またその業でもある。天も大空も昼も夜も、つまり、どこでもいつでも神はわれわれにご自身を現してくださるのであるが、そして、われわれもまたそのことを身体的にはよく知っているのでもあるが、だからといってその事実を何でもかんでも言葉で表現し尽くすことはできないのだ。いやむしろ、われわれは悟らなければならない。「われわれは自分の言葉で表現する以上の事柄を、この世の全てから感じ取っている」ということを。
表現するのではなくて
どういうわけか、われわれ人間は言葉を持っている。それは神の創造の初めからそうなのだ。人間は自身の言葉によって神に応答することができた。神が「お前はどこにいるのか」とアダムに問うたとき、彼は彼自身の言葉で答えることができたのである。これが人間の優れたところである。
それでも、それが可能であるからといって、「適切」に答えていると思ってはならない。言葉にすれば解決するというものではないのだ。少し考えてみれば分かるだろう。誰が自分自身について正しく言葉で表現できるであろうか。むしろ、言葉で語り尽くせるほどに人間自身も薄っぺらではないのだ。まして、神に対してはなおさらではないか。神について語り得たとしても、だからといってそれが神を言い表しているということはない。それは良い意味でも悪い意味でも同じである。
夏は己を吐き出すときではない。天が語り、大空が語り、また昼が語り、夜が語ることから何かを感じ取るときなのだ。
そういえば、カール・バルトという人は、目に見える何ものも神を啓示はしないと言っていた。そうだろうか。天は見えない、いや、見えているかもしれない。大空は見えるけれども、われわれは見尽くしてはいないのではないか。夜もしかり。これらが神を語らないのであろうか。神を、その不思議と奥深さを伝えてくれるのは、聖書という「言葉」だけだろうか。
夏の短夜に神を感じる。そういう意味で夏の夜は短くはない。大空の向こう側に目を向ける。神はわれわれに何も伝えないだろうか。むしろ、こう言うべきかもしれない。夏は孤独に立ち入ることができる季節なのだと。下方ではなく、上方へと一人で静かに目を向ける季節ではないのか。だから己の中にある言葉と戦ってはならない。感情を言語化してはならない。それは冬の作業なのだから。(続く)
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