不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(46)
※ 前回「共に苦しむのか、共に暴れるのか ガダラ考察(その1)」から続く。
マタイ8章28~34節とマルコ5章1~20節の比較
ガダラ人の地方にイエスと弟子たちがやって来た。ガダラはヨルダン川東岸の町で、イエスの時代はデカポリス、つまり10の町の1つだった。マルコ福音書が語るゲラサとは、同じ地方ということになる。ガダラには切り立った断崖がガリラヤ湖に面している場所があるらしい(ウィキペディア「ゲルゲサ」参照)。一方で、ゲラサはガダラよりも内陸部にあって、こちらの方が町の規模が大きく、名が通っていたようだ。地名に詳しくなかったマルコが、デカポリスといえば、ゲラサの方が有名だから、このように書き換えたというのはあり得るだろう。
問題は、墓場に住んでいた悪霊憑(つ)きの人数だ。墓場で、一人で苦しみながら生きていたというマルコ福音書の記述と、墓場で共同生活をしながら、しかも非常に凶暴で地域の人が近づけないほどであったと伝えるマタイ福音書では、そのニュアンスが相当に違う。また、マタイ福音書にはレギオンという名乗りもない。マルコ福音書で描かれているような悲壮感も欠けているように思える。さらに、悪霊を追い出してもらった人が、マルコ福音書に書かれているようにイエスを地域の人々に伝えるということもない。マタイ福音書では、ただ凶暴な悪霊が、イエスによって追い出されたことだけが強調されているように思えるのだ。
マルコ福音書は宣教的か
つまり、マタイ福音書には悪霊退治のその後の広がりというものがない。マルコ福音書では、孤独に苦しむ人を助けるイエスが浮き彫りにされているが、マタイ福音書では、悪霊退治そのものと、その地方の豚(マルコ福音書のように2千匹とは書かれていない)が犠牲になったことだけが伝えられているのである。
もう少しかみ砕いて言うと、マルコ福音書からは、悪霊に取り憑かれた人を助けるためにわざわざ嵐のガリラヤ湖を渡るイエスを想像することができるが、マタイ福音書では、イエスの行動はただ異邦人の地に巣くう悪霊を退治するためであったかのようだ。どうもマタイ福音書には、異邦人への伝道というテーマが欠如しているように思える。
この点を強調すれば、マルコ福音書は、マタイ福音書を延長して異邦人のために命懸けで働くイエスを描いたのだ、と語ることもできるだろう。あるいはマルコ福音書は、なぜヨルダン川東岸地域に、しかも異邦人の中にイエス・キリストを信じるグループがあったのか、という点について、一つの答えを与えているようにも思える。かつてその地にイエスが来られ、ある人を悪霊から救い、その出会いからイエスに対する信仰が生まれ、その人が一生懸命にイエスについて人々に語り続けた結果だと説明できる。つまり、イエスとの直接的な出会いによる信仰は、教義化された十字架と復活による救いの定式とは、ひと味違うものであった可能性もあるだろう。
また、このようにも考えられるかもしれない。その地域の人にとっては、かつてレギオンという悪霊憑きから聞いたナザレのイエスと、十字架と復活の後に伝えられたナザレのイエスが、見事に合致したのだと、そういうドラマを考えてみることはできないだろうか。
いろんな霊がある
話は変わるが、私は40代前半のころ、めちゃくちゃ働いた反動で強力な悪霊に取り憑かれていた。ような気がする。アルコールの霊は20代後半から常駐していたが、ギャンブルの霊は40代前半からだ。アルコールの霊は孤独を愛するようだ。というか、孤独に浸るからアルコールの霊にやられるのかもしれないが、まあ相当に飲んだ。
ギャンブルの霊というのは逆に、仲間が仲間を呼ぶ傾向にあると思う。競馬、競輪、競艇など。そしてギャンブルの王様といえば、パチンコである。あの霊どもはとにかくにぎやかな所が好きだ。静かな場所でパチンコを楽しめるとしたら相当なものだ。あれは無秩序にガチャガチャ、キラキラの場所でないとのめり込めないのだ。まあ、苦い経験だったが・・・。まあ、とにかく人間を狂わせる諸霊というものは確かに存在しているのではないか。何でもかんでも自己責任とは言えまい。
悪霊による依存
マタイ福音書の悪霊憑きの2人ならどうだろうか。お互いが自傷するのを見ているというのもあり得ないように思う。なぜなら自傷というのは悲しみの極地であり、見るに堪えないものだ。誰かが見ている中で自傷するというのは特殊なことで、大抵は一人でギリギリと自分を傷つけていく。自傷の果てに自死というのはありがちなパターンであるが、実のところ自傷の主な目的は自死ではなくて、むしろ逆パターンが多い。生きていることを自覚するために痛みを味わう、また、痛みを味わって生きる力を呼び戻すのだ。
言葉を変えれば、心の痛みが激し過ぎて肉体感覚が麻痺しているから、それを取り戻そうと懸命になっているのだ。私は自傷の経験はないが、ギャンブルに行くというのは、その無価値性(ギャンブルの結果は本当に何も益するものはない)を知りながら行くわけで、お金と時間と体力の無駄ということは重々承知なのだ。だから断言するが、ギャンブルというものも自傷に近いし、緩やかな自死と呼んでもよいだろう。それは過度のアルコール依存と同じである。そのように考えれば、マタイ福音書の2人は自傷的な生き方ではないだろう。
同類を憐れむということでもない
悪霊に取り憑かれた2人は、互いにどのように相手のことを理解していただろうか。「こいつも俺と同類だ」という自覚があったのだろうか。それとも同類だから一緒にいれたのか。3年間くらい毎日パチンコ屋に出かけた時期があったが、常連が30人くらいいた。あいさつはしないけど、何となく目が合ってしまうのだ。
「こいつまだ生きている、まだ破産していない。どうやってギャンブルの金を賄っているのか」とお互いに思っていただろう。あの人たちはどうなってしまったのか。ギャンブルの霊から解放されたのだろうか。まあ、心配はお互いさまなのだが・・・。
さて、悪霊に取り憑かれて同じ墓場で生活をし、そして結構大暴れしていたということだが、まさかそこに連帯感が生まれるということはなかろうが、さりとてお互いにより良き方向に進んでいこうと思っていたわけでもないだろう。お互いがお互いを見ていながら、それでいて他人事だったのではないか。
これからの可能性はあると
驚くべきは、2人してイエスの前に現れたことだ。どちらか一方ではないというところに、何かホッとするものを感じる。もちろん、イエスの前に現れたのは悪霊が主体であるかのように聖書は語るのであるが、言葉通り受け止める必要はない。実際のところ、悪霊憑きの場合は、悪霊が主人なのか、それとも自分自身が主人なのか、そもそも判別も付かないのだ。
聖書によれば、イエスが神の子であり、悪霊を何とでもできると知っているのは常人ではなく、悪霊か、あるいは切羽詰まった弱者である。ごく普通の人間はなかなか気付けない。それもまた、不思議なようでいて不思議でもないわけで、霊的な深みというのはいつもそういうものなのだ。だから常人は絶えざる祈りによって聖霊を受けておかないと、イエスを神の子、救い主だとは思えなくなってしまう。絶えず祈れというのはそういう意味なのだ。
マタイ福音書でも、悪霊はイエスによって豚に飛ばされるのであるし、その結果としてデカポリスの住民がイエスにご退散を願うのも同じ。マタイ福音書で不明なのは、悪霊から解放された後の2人である。どうもマタイにはあまり関心がないらしい。それに比べるとマルコは、悪霊に悩まされた人にも、その人の悪霊払いをされた後の生き方にも注目していて、どちらかといえば、マタイ福音書はイエスが主人公であり、マルコ福音書はレギオンが主人公であるというように思える。これは目の付けどころの違いということでよいのかもしれないが、両書を読むとバランスが良いようにも感じる。
私としては、共にイエスから悪霊を追い出してもらった2人が、その後に連帯感を持つようになったかどうかが気になる。書かれていないことを想像するのはよくないなのだが、どうだろうか。分かりきったこととしては、いくら悪霊の仕業だったと人々が受け入れてくれたとしても、2人の悪行が人々の脳裏から消え去ることはないということだ。世間様は甘くはないのだ。もし、これから2人が連帯感を持って、それこそ友人として生きていける可能性があるとしたら、それは2人にとってイエスが救世主であったという事実だけだろう。
一つの結論として
つまりは、墓場で生きるというとんでもない状況に追いやった悪霊から解放してくれたイエスという方との距離感だ。悪霊を追い出しただけの不思議な人物で終わらせるのか、それとももっと深いところでイエスを知り、またその人によって人生を組み立て直していけるのか、それは大きな違いだ。あの人は恩人だったで終わるのか、それともわれらの救い主となるのか。2人で信じるというなら、希望がたくさんあるように思えてならない。信仰というものは、一人で信じていればそれで良いというものではない。共同かつ共働した人々の信仰が教会の基(もとい)であるからだ。(終わり)
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