わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(新約聖書・コリントの信徒への手紙二6章8b~10節)
保育を語るときに、前提となる事柄があります。それは「保育とは養護と教育が一体となったものである」ということです。保育とは、子どもを一人の人として尊重して生かす働き(養護)と、その子が生きる力を紡ぎ出していくように導く働き(教育)の組み合わせによって成し遂げられていくことなのです。
専門家とは誰なのか
現在は、「広汎性発達障害」という言葉が公的に語られることはほとんどありません。21世紀に入ってすぐ、発達障害という概念が日本に入ってきたとき、「自閉症」「アスペルガー症候群」「注意欠陥多動性障害(AD/HD)」「学習障害」など、さまざまな「障害」としての概念がなだれ込んできました。
そして不幸なことに、当初はそれらが児童犯罪と関連させられながら、報告・認知されていきました。多くは「社会性の障害」という症状で紹介され、「障害」である以上、それに対応する行為は医療行為に該当するといわれていた時代がありました。つまり、診断が下った時点で、保育士はその子に対する支援を専門家に委ねるように要請されたわけです。そして、保育施設は研修などで、当時できたばかりの支援施設の支援員からこのように言われました。
「あなたたちは専門家ではないので何もしないでください」
つまり、診断が下った時点で完全に手を引け、と言われていたわけです。こういう考えを持ちながら、保育指導などに入る支援事業所もありますが、芳しくない事例も見聞きします。保育施設と保護者の間に割って入り、「あの保育園は、あなたのお子さんに向かないから転園させなさい」と言うような、ひどい事例も聞いたことがあります。
「障害」の概念が変わった
こんなことが10年も続いてしまうと、保育士たちも、また保護者でさえ、発達障害に対し、漠然とした恐怖しか抱けなくなります。しかも、診断も対応も全ては専門家の手の中です。
しかし、ここ20年の間に研究が進み、今では、自閉症、アスペルガー症候群などを含む広汎性発達障害は「自閉症スペクトラム」という名称に置き換えられています。そして、障害者の概念はこの20年で急速に変わってきました。それは、今までは「障害者は一生障害者」という捉え方だったのが、「たとえ障害があったとしても健常者同様に生活できるなら障害者ではない」という捉え方に変わってきたことです。
例えば、極度の遠視や近視などの視力障害は、現代ではメガネやコンタクトレンズで簡単に乗り越えられる場合が少なくありません。こうしたメガネを作るには、医師による診断書と処方箋が必要ですが、メガネをかけられない状態の時や、メガネをかけている状態で不自由を感じる時に必要となる支援は、保育におけるところの「養護」になります。まさにこの部分を、かつて「専門家ではないので何もしないでください」と言われた保育士が担っていかなければならないのです。
この養護に当たることに関して、眼科医やメガネ屋が文句を言ったりすることはないでしょう。それと同様に、たとえ自閉症スペクトラムであっても、養護は行わなければならないのです。つまり、医師の診断はある、療育(発達支援)も受ける、この2つは前提ではあるものの、他の児童と同じように養護を制限されることはあってはならないのです。
気になる子が増えている?
実は、発達の遅れなどが疑われる子の何割かは、そうした遅れが環境によって起こることが知られています。また、劣悪な保育が発達を阻害するケースも昔から存在しています。その一つが「虐待」です。虐待には、身体的虐待、心理的虐待、無視や放置といったネグレクトなどがありますが、これらのものが子どもの発達を著しく阻害するのです。
このことは特に注意しなければいけません。発達障害が疑われる子が増えているとよく聞きますが、少子化が加速度的に進行している現代にあって、これだけ増えるのは統計的に見ても不自然です。これは、環境が子どもの発達にとって非常に困難な時代になってきていることの現れともいえます。逆に言えば、環境を整えると、発達は著しく促されるということでもあります。
保育の工夫
虐待とは違いますが、よく聞くケースには、弟や妹が生まれたころに、幼児退行する事例(いわゆる「赤ちゃん返り」)があります。これは、家族、特に母親の関心が弟や妹に取られてしまったような気になり、本能的に「赤ちゃん化」してしまうものです。いきなり幼児語を使ってみたり、母乳や哺乳瓶を要求してみたり、お漏らしをしたりして、自分に関心を向けようとするのです。このような場合、保育士としては当然、その子の悩みに寄り添い、共有し、言語化し、前向きな方向に進めるように背中をそっと押してあげます。
では、例えば、そのような子に「赤ちゃん、かわいいね」と声をかけたらどうでしょう。これは、評価対象が赤ちゃん(その子の弟や妹)になってしまうので、あまり適切ではありません。「お兄ちゃん(お姉ちゃん)になったんだ。大きくなったね」などと声をかけた方がよいでしょう。また、より積極的に「お兄ちゃん(お姉ちゃん)、偉いね」などと、下の子ではなく、その子本人を評価してあげることもよいでしょう。
このような言葉がけが本人の自己肯定感とうまくつながると、赤ちゃん返りは徐々に落ち着き、今度は積極的に赤ちゃんの面倒を見始めたりすることが、保育所でよく見られる光景です。行き詰まったり、後戻りしてしまったりした発達を、このような配慮で新たな環境を示し、導き、自信を与えてあげるのです。
このような工夫は、実は集団保育でしか行えないことでもあります。療育(発達支援)は、現状個別で行うしかありません。それは、その子のその療育に対してのみ経費がついているからです。しかし、一人一人は家庭や保育施設、学校などの社会で生きています。そのため最近では、療育を行う支援関係者の中にも、保育で行われている支援や工夫が必要であることを認める人が増えています。
保育で発達を促す
保育で発達を促すために必要な要素も分かっています。そのため保育では、「肯定的な言葉をかける」「失敗を許容する」「自己表現を促す」「適切な挑戦を提供する」ことが強く意識されるべきとされています。
今の保育施設の配置基準(子どもの数に対して最低限必要な保育士の数)が、75年前の基準だとよく指摘されていますが、75年前にあふれるほどいた子どもたちをどのように管理していたかを考えてみると、今の保育が忘れてきたもの、失っているもの、そして、期待できなくなったものが分かってきます。次回は、それらのことをひもときながら、保育の在り方を考えていきたいと思います。(続く)
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