ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェーヴィチは、強国に国土を分割され、圧制と搾取に苦しむ祖国の人々を慰めるために、彼らの姿を暴君ネロの迫害に苦しむキリスト教徒たちのそれに重ね合わせて、『クオ・ワディス』を書き上げた。この作品が出版されると、国境を越えてあらゆる人々から熱狂的に歓迎され、聖書の次に愛読された。第一次世界大戦下では、出征する若い兵士たちの多くがこの本をはいのうの内に入れていたといわれている。
作品について
題名の「クオ・ワディス」については、迫害下にあるローマの都を脱出しようとした使徒ペテロが、イエス・キリストと出会い、「クオ・ワディス・ドミネ?(主よ、どこへ行かれるのですか)」と尋ねたところ、「おまえがわたしの民を捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」という主の言葉を聞き、再びローマに引き返したという伝記に基づいている。
ローマ帝国にキリスト教が徐々に浸透する中で、キリスト教的愛(アガペー)とギリシャ的美(エロス)が混然と溶け合って繰り広げられる最高級の歴史ロマンである。また、読者をしてその場に実際に居合わせているかのような臨場感を持っているのが特徴である。キリスト教精神をこれほど崇高な形で描いた小説は他になく、迫害の残酷な場面さえ感動的に美しく描く文章力は他に類を見ないと思われる。
シェンキェーヴィチの生涯
ヘンリク・シェンキェーヴィチは、1846年5月5日、ポーランドの首都ワルシャワからほど近いヴォラ・オクシェイスカ村で生まれた。後に一家そろってワルシャワに移住。高校を経て1866年、20歳で現在のワルシャワ大学に入学。1871年、新聞記者になり政治論評やルポを「ポーランド新聞」に寄稿する。1876年2月、友人と共に「ポーランド新聞」の特派員として米国に渡り、フィラデルフィア州やカリフォルニア州で取材に当たるが、旅からの手紙や短編小説が、危機に瀕していた「ポーランド新聞」を救うことになった。
1879年、ワルシャワに帰国。1881年に結婚。新しくできた新聞「言葉」の編集者となる。当時のポーランドは、ロシア、プロイセン、オーストリアの三国分割下にあり、祖国の人々は強国の圧制にあえぎ、自由と独立を求めていた。シェンキェーヴィチは祖国の同胞を励ますために、『火と剣』『洪水』『英雄ミカエル』など、歴史小説の三部作を上梓する。そして1896年、世界的名作『クオ・ワディス』を書き上げた。さらに続けて『十字軍の騎士』に取りかかり、1900年に完成させた。
この年、シェンキェーヴィチの創作活動25周年を記念して、南ポーランドに領地を与えられる。『クオ・ワディス』に関しては世界文学の最高傑作であるとの評価を博し、1905年、彼が60歳の時、ノーベル文学賞が授与された。その後も活躍を続けたが、1916年11月15日、熱望していた祖国の独立を見ることなく、スイスのヴヴェで永眠した。70歳であった。
「文学は人生を向上させるものであって、おとしめるものではない」。これはシェンキェーヴィチが残した言葉であり、それを体現したのが彼の生涯だった。
あらすじ
ローマ軍将校のウィニキウスは叔父である宮廷詩人ペトロニウスの屋敷を訪れ、リギ族の王女リギアへの報われぬ恋の悩みを相談する。おいのためにひと肌脱いでやろうと、ペトロニウスはリギアを宮廷で預かり、その後ウィニキウスに与えるよう皇帝に願い出て許可される。
しかしながら、リギアは数人の男たちによって奪われてしまう。ペトロニウスはおいをなだめるために、自分が目をかけている金髪の女奴隷エウニケを与えようとするが、人知れず主人ペトロニウスに思慕の思いを抱くエウニケは、罰を受けても屋敷を離れようとしない。
そのうちペトロニウスはキロン・キロニデスという怪しげな哲学者を通してようやくリギアの居場所を突き止め、ウィニキウスに伝える。彼女はキリスト教徒の仲間と共に郊外の地下墓地に隠れていたが、その傍らには忠実な巨人ウルススが片時も離れずに守っていた。ウィニキウスはリギアを取り戻すために乗り込んだが、ウルススの怪力によって深い傷を負う。
しかし、キリスト教徒たちは彼を親切に看護し、医者のグラウコスの心を込めた治療により、彼は一命を取り留めた。この墓地はキリスト教徒の集会所であり、使徒ペテロや使徒パウロの話を聞くうちに、次第にウィニキウスは感化されていくのだった。
その後、ウィニキウスは何度もリギアの元を訪れて語り合ううちに、その心が結ばれ、使徒ペテロによって祝福される中、2人は婚約をした。そして同時にウィキニウスは洗礼を受けてキリスト教徒となったのだった。
ところでこの頃、皇帝ネロはしきりに自作の詩を宮廷で披露していたが、「トロイの落城」の歌を迫力あるものにするためには、実際に燃える町を見たいとして、町を焼き払ってしまう。しかも彼は、その火災の責任をキリスト教徒になすりつけてしまったのだった。こうしていよいよ、キリスト教徒に対する大規模な迫害が始まった。
彼らは逮捕され、円形闘技場で見世物の代わりに残酷な方法で処刑されたのだった。ある者は十字架につけられ、また、火刑に処せられ、あるいは猛獣の餌食にされつつも、賛美を歌い、祈りつつ死んでいった。
見物人はこれを見て驚いて互いに言うのだった。このような崇高な力を彼らに与える神様とは、一体どんな方なのだろうかと。
そのうち、皇帝ネロの庭園ではある夜、恐るべき火刑が行われた。キリスト教徒は引き出されると、松やにを塗った柱に縛り付けられ、火が放たれた。皇帝ネロは家臣と共に、怖がるキロンを無理につれて見物していた。
やがて一行がある場所に来たとき、高い柱に一人の老人が縛り付けられ、うめいていた。それは、かつてキロンが裏切って破滅させた医者グラウコスだった。キロンが絞り出すような声で赦(ゆる)しを乞うと、グラウコスは穏やかな声で「主の御名により、あなたを赦します」と答え、死んでゆく。すると突然、キロンは立ち上がり、群衆に向かって「キリスト教徒に罪はない。放火したのはこの人だ!」と叫び、皇帝ネロを指す。
その夜、うつろな思いで庭園をさまよっていたキロンは、彼の魂を救うためにやって来た使徒パウロと出会う。神は愛であることを教えられたキロンは、涙ながらに罪を告白し、洗礼を受けた。やがて家に帰ったキロンは、近衛兵たちに捕らえられ、宮廷に引いていかれ、厳しい拷問にかけられる。そして翌日、十字架にかけられて殉教したが、その額には光の輪が現れ、天使のような顔で死んでいったのだった。
リギアにも殉教の日が来た。彼女は野牛の背に縛り付けられ、砂場に放たれる。見ていたウィニキウスは悲痛な叫び声を上げたが、彼女を救う手だてはなかった。そのとき、巨人ウルススが飛び出していくと、群衆が固唾(かたず)をのむ中、野牛と死闘を続け、ついに倒してリギアを救った。群衆は総立ちになって彼らの助命を嘆願する。
その後、ウィニキウスとリギアはペトロニウスの計らいでシチリアに移住し、幸せに暮らすことになる。ペトロニウスはそんなある日、多くの人を招いて豪華なパーティーを開き、その席で皇帝ネロを手ひどく非難する詩を披露した。そして愛する女奴隷エウニケと共に医者に腕の静脈を切らせ、静かに死んでいく。
また、使徒ペテロは、ナザリウスという少年と共にローマを脱出する途上でキリストに会い、「おまえがわたしの民を捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」という言葉を聞き、ローマに引き返した。
その後、皇帝ネロは、帝国に攻め込んだガルバによって自害に追い込まれ、ローマは次の時代を迎える。
見どころ
だがエウニケはペトロニウスの前にひざまずいて、両手を合わせて、この家からほかへはやらないでくれと懇願しはじめた。(中略)どうかあわれと思召してくださいまし、この家を出されさえしなければ、毎日笞(むち)打たれてもかまいません。そう彼女は言った。(上、203ページ)
日は暮れかかっていたが、火勢はいよいよはげしくなるばかりだったので、庭園のなかは真昼のように明るかった。いまはもう、ひとつひとつの地区が燃えているのではなく、ローマの都全体が、どこもかしこも燃えているように見えた。空は目のとどくかぎり赤かった。赤い夜が世界の上に降りてこようとしていた。(中、289ページ)
観客は(中略)足を踏みならしたり、口笛を吹いたり、からになったぶどう酒の容器やかじったあとの骨を投げたりしはじめ、口ぐちに「猛獣を出せ! 猛獣を出せ!・・・」とわめき立てた。しかしこの時突然、思いもかけぬ事態が生じた。毛皮をまとった者たちの群れのなかから歌声が起こったのだ。そして時をうつさず、ローマの競技場でははじめてきかれる歌がひびき渡ったのだった。「キリストは統べたもう!・・・」(下、111ページ)
最初に十字架につけられた者のいくたりかは気を失っていた。うめいたり、憐(あわ)れみを乞うたりする者はひとりもいなかった。ある者は眠気におそわれでもしたように首を肩にかしげたり胸の上に垂れたりしていた。ある者は瞑想にふけっているようであった。ある者はまだ天を仰いでしずかに唇を動かしていた。(下、159ページ)
突然彼はよろめいて両手を上にさしのべたかと思うと、胸をかきむしるようなすさまじい声で叫んだ。「グラウコス! キリストの御名によって! わたしを許してくれ!」(中略)殉教者はかすかに頭を動かした。やがて柱の頂上から呻(うめ)くような声がきこえた。「あなたを許します!・・・」(下、195ページ)
「わたしたちの神は愛の神です」 使徒はくりかえした。「あなたが海辺に立って、どれほど石を投げ込んだところで、あなたは海の深みを埋(うず)めつくすことはできますまい。わたしはあなたに申します。キリストの愛はその海と同じで、人間の罪や科(とが)は、石が深みに沈むように海に沈んでしまうのです」(中略)はげしい嗚咽(おえつ)がこのあわれな男の胸をふるわせ、魂を底の底まで引き裂いた。パウロは彼を抱きかかえるようにして慰めながら、兵士が捕虜を引いていくようにして連れていった。(下、200~201ページ)
ついに一頭のクマがのそのそと砂場へ歩み出た。頭を低く下げて左右に振って、何か考えてでもいるように、あるいは何かを探してでもいるようにあたりを見まわした。やっと十字架と、それに打ちつけられた裸体に気がつくと、クマは近寄っていって後足で立ち上がりさえしたが、またすぐ前足をおろし、十字架の下にうずくまって、けものの心にもこの幽霊みたいに陰の薄い人間に対する憐れみが目ざめたかのように、低く唸(うな)りはじめた。(中略)
この時観客をびっくりさせることが起こった。彼の顔が明るい微笑(ほほえ)みにかがやき、額のまわりに光の輪のようなものが現われ、死を前にして天空を仰ぎ、やがて瞼(まぶた)の下にたまったふたしずくの大きな涙がゆっくりと頬をつたって流れ落ちたのである。こうして彼は息を引き取った。このとき、最上段の天幕の下からよくとおる男の声がひびき渡った。「殉教者らに平安あれ!」(下、213ページ)
ペテロの手からは旅の杖が、はたと地に落ちた。目はじっと前を見つめている。口があいて、顔には驚きとよろこびと恍惚(こうこつ)の色が浮かんだ。(中略)やがてむせび泣きに途切れる老人の言葉が静寂を破ってひびいた。「クオ・ワディス・ドミネ?(ラテン語。主よ、どこへ行かれるのですか」の意味)・・・」 その答えは、ナザリウスには聞こえなかったが、ペテロの耳は悲哀を帯びた甘美な声がこう言ったのをきいた。「おまえがわたしの民を捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」(下、266ページ)
やがて彼はギリシャ人の医者に合図して、片腕をのばした。老練な医者はまたたく間にその腕を金色のひもでしばって手首の静脈を開いた。(中略)エウニケはペトロニウスの頭を支え、その上にかがみこんで言った。「御主人さま、わたくしがあとに残るものとお考えでございますか。たとえわたくしに神々が不死をお授けになり、皇帝が世界の支配権をお任せになったとしても、わたくしはやはりお供がしとうございます」(中略)エウニケはばら色の腕を医者のほうへのばした。やがて血が流れ出して、彼の血とあわさった。(下、300~301ページ)
■ ヘンリク・シェンキェーヴィチ著、木村彰一訳『クオ・ワディス』(上・中・下)(岩波書店 / 岩波文庫、1995年)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。