景教碑は漢字とシリア文字で構成されています。漢字は楷書体と行書体の混成で書かれ、書いた人物は呂秀巖です。優れた書体でまとめていることに大変驚きます。今回から、彼が生きた唐代で書をよくした人物である欧陽詢や虞世南らの書と比較しつつ、景教碑の書体と漢字について述べたいと考えています。
唐をつくった人物は、太宗皇帝とその父の李淵・高祖です。太宗は父のあとを受けて、長男や弟を殺害して皇帝の座に就きました。太宗は軍人で、父と共に隋の時代を築く手助けをし、隋を滅ぼして唐を建てました。彼は建国に当たって文化を重視し、特に書文化を発展させました。
当時の書家随一といわれた欧陽詢と虞世南を弘文館の学士とし、書法を役人たちに教えて普及させました。彼らによって楷書体がほぼ完成しました。それまでの書体の変化を見ていくと、行書体、草書体、隷書体があります。最初に作られた文字は甲骨・獣骨文字といわれ、亀の甲羅や動物の骨に刻まれていました。
その変遷を図で示しました。
太宗皇帝は自ら書に深く傾倒しました。王羲之の作品を全て収集して棺にまで納めた結果、真筆が一つも残らなかったといわれています。自らの書作品である「温泉銘」が有名です。景教碑に「文皇帝」と刻まれるほど文化を重視した人物でした。
当時、西安より北の地方では、石に刻む碑文が多く、南では、紙に書く筆文字が普及し、特に王羲之の書風が広く普及していました。太宗は広い中国を書で統一しようと弘文館をつくりました。そして欧陽詢と虞世南が楷書の完成に向けて書き上げたのが、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」、虞世南の「孔子廟堂碑」です。
九成宮醴泉銘は、太宗皇帝と妃が夏の避暑地としていた九成宮で、甘く良き香りの泉が湧き出で、疲れを癒やしたという内容の漢文です。この書は当代随一と称され、書法の手本ともなっています。
その書体と景教碑の書体を並べて、比較検討しました。
この地図は中国唐代7~8世紀のものです。
景教碑の書と九成宮醴泉銘の書を比較すれば、呂秀巖の力量も見事な筆さばきで、能書家であると評することができます。現在、小学校の書の時間や書道教室でも基本点画を学生に教えていますが、この唐代の書風が今日にまで影響していることを多くの方に知っていただければと思います。(つづく)
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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