「家族」というテーマは、常に映画の題材になりやすい。これを感動的に描くなら、今年のアカデミー賞を獲得した「コーダ あいのうた」のようになる。一方、家族崩壊の悲しいリアリティーを追求するなら、「クレイマー、クレイマー」や「普通の人々」のようなスタイルになる。重厚な人間ドラマとして社会的背景から浮かび上がる「ファミリー」という概念を前面に押し出すなら、「ゴッドファーザー」シリーズの右に出るものはない。ホラー映画で「家族」を描くのであれば、「悪魔のいけにえ」や「ヘレデタリー/継承」のようにぶっ飛んだ作品もある。挙げたのは洋画ばかりになってしまったが、もちろん邦画にも同じようなテーマの作品は多々存在する。
そのような中で、今夏公開された2作は異色である。どちらも「家族」がテーマであるが、そのアプローチ、そして展開は独特である。強いて共通点を見いだすなら、どちらも「ホラーテイスト(決してホラーではない)」ということになろうか。
「こちらあみ子」(7月8日公開)
本作は、芥川賞作家・今村夏子の同名小説を、これが監督デビュー作となる森井勇佑が映画化したものである(森井は、以前レビューした「星の子」の助監督を務めており、この作品も今村の同名小説が原作である)。映画宣伝の言い回しでは「少し風変わりな女の子」とされるあみ子(大沢一菜)の言動が、周囲にただならぬ緊張と影響を与えていく様を見事に活写したホームドラマである。しかし、生半可な気持ちで鑑賞することはお勧めできない。音楽や登場人物の描かれ方は、一見コメディータッチでほんわかしたものであるが、そこに映し出される「出来事」や人間の感情はとてもハードボイルドである。
あみ子が悪意を持って波紋を生み出しているわけではないことを知っているだけに、観客は「イノセントな罪性」をどう受け止めればよいのか、戸惑うことになる。ここがホラーテイストと表現したゆえんである。特に後半に訪れる決定的な転機は、あみ子がこれをどう受け止めているか、その内面が描かれていないだけに、よけい不気味である。しかし、あみ子のような人々がいることについて知識を持っているのであれば、「イノセントな罪性」を温かく受け止めることはできるだろう。しかし、そういう世界をほとんど知らない人が鑑賞する場合、「ほとんど理解不能な女の子」として、あみ子を見てしまうことは否めないだろう。
どこにでもいそうな家族の日常をほのぼのと描きつつ、その一方で次第に家族が崩壊へと突き進んでいく様も見せていくという試みは、かなり野心的といえよう。例えるなら、「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」の作風で、「普通の人々」のストーリーを描くようなものである。
私は観終わったとき、なぜかあみ子に感情移入していた自分を見つけた。「あみ子、頑張れ!」と心の中で叫んでいた。このもやもやとした気持ちが今も晴れない。そして、自分の家族について思いをはせることになる。そういう意味でも、新しい「家族映画」だといえる。
そしてふと余計なことを思った。「こういうあみ子みたいな子を教会は果たして受け入れられるだろうか」と。オフィシャルには「どなたでもお越しください」となっているが、果たして教会は彼女のような「少し風変わり」な存在を、どこまで受け入れる体制(そして耐性)があるだろうか。そう考えさせられたのである。
鑑賞後、数週間がたってもあみ子の声が頭の中でこだましている。
「この子は邪悪」(9月1日公開)
本作は、オリジナル作品による企画コンテスト「TSUTAYA CREATORS' PROGRAM」(TCP)の2017年の準グランプリ作品である(このコンテストから映画化された作品として、以前レビューしたものに「マイ・ダディ」がある)。TCPからは「哀愁しんでれら」や「嘘(うそ)を愛する女」など、幾つもの作品が輩出されているが、本作も低予算ながら先の読めないストーリー展開、そして意外な結末と、映画作品としてはかなりのクオリティーを保っている。
どこにでもいそうな仲の良い4人家族がいた。しかし交通事故により、長女・花(南沙良)は心に傷を負ってしまう。父・司朗(玉木宏)は脚に障害が残り、母・繭子(まゆこ、桜井ユキ)は植物状態に。そして妹・月は顔にやけどを負い、それ以来お面を付けて生活している。だがある日、植物状態から目を覚ました繭子が突然家に帰ってくる。司朗は「奇跡が起きた」と久々の家族団らんを喜ぶが、花は違和感を覚える。そして親しくなった幼なじみの純と共に、家族に一体何が起きているのかを探ろうとするのだが――。
本作の陰の主役となっているのが、「心理療法」という学問分野である。オカルトや眉唾ものの催眠術と何が違うのかが劇中で示されていないため、リアリティー路線が低い作風であることは分かる。しかし、物語が展開するにつれ、今まで単なる舞台設定の副次的要素だろうと思っていた別のコンテンツが、実は本作のテーマとなっていることに気付かされる。ある種の「どんでん返し」と言ってもいいだろう。そこから深読みするなら、「人間とは何か?」そしてこのように定義された人間が一般的に営んでいる「家族とは何か?」をホラーテイストで考えさせる一作となっている。
キリスト教的に考えるなら、「霊肉併せ持った存在が人間」なのか、それとも人間とは「霊的な本質が肉体をまとっている存在」なのか、ということである。これは神学的にもイエス・キリストを定義するときに議論された難題である。図らずも本作はそういった深堀りを可能にする作品に仕上がっていた。これは思わぬ収穫であった。
2作は現代社会からキリスト教界への挑戦
「家族」の定義は人それぞれだろう。そして、どこまでを「家族」に含めるかもまた、それぞれの時代や状況によって大きく変化する。同じことが映画の世界でもいえる。ストレートに家族の意味を問うものから、家族という形態を用いながらそこに異質な何かを加えようとする試みまで、種種雑多である。このような変化がグラデーショナルに配列された世界に私たちは生きている。
今回取り上げた2作は、従来の意味での「家族映画」とはいえない。だが、時代がこれらをも「家族」の範疇(はんちゅう)に含めることを要請している。このような映画作品の存在そのものが、その表れといえるだろう。キリスト教界は、旧態依然とした窓から「家族」を眺めていてはいけない。時代の変化、推移を見極めつつ、「家族」の在り方の変遷についても物申すべきであろう。この2作は、まさに現代社会からキリスト教界への挑戦といえる。この挑戦を敢然と受け止める存在でありたい。
◇