さまざまな宗教において、「性」に関するタブーを散見することがある。特に私が生まれ育ったキリスト教、その中でも保守系(福音派、ペンテコステ派)において、この傾向は強かった。中にはこれが高じて「恋愛禁止」なる某アイドルグループ級のおきてが暗黙のうちに形成されてしまうこともあった。
若者たちはこの流れに反発する。すると、理解ある(かのように見せる)大人たちは、このような戒律的な押し付けを行う集団を「カルト」とか「異端」と決め付け、そこから離れるように訴えるようになる。
しかし、そもそも「性」はどうして忌避されるようになったのか。また逆に、「性」を開放的に捉え、むしろ奨励さえする宗教もある。アプローチの違いこそあれ、どうして「性」にそこまでフォーカスするのか。そんな疑問に一定の回答を与えてくれるのが本書である。
著者の島田裕巳氏は、宗教に関する数多くの著作を出版し、好評を得ている宗教学者である。その彼が、「宗教界のタブー」と目される「性」、しかもこれに「セックス」とルビを打った新刊を出されたということで、早速購入して読ませていただいた。
本書の「はじめに」で島田氏はこう語る。
篤い信仰を持っている人たちは自らの宗教を神聖視し、欲望とは切り離された清浄なものと見なそうとします。それは信仰者の願望ということにもなりますが、性の問題を無視してしまえば、人間の本質にはたどりつけません。人間は、自らが抱えた性の欲望と立ち向かうことで、宗教という文化を築き上げてきたのではないでしょうか。性を無視して、宗教を語ることはできないのです。(9ページ)
本書は「世界三大宗教」と呼ばれるキリスト教・仏教・イスラム教をこの順番で取り上げながら、各宗教が「性」、特に性交に対して、どのような観点からどういう評価を下しているかを概説したものである。その中で島田氏は、まずキリスト教に注目する。そして冒頭で、ある「疑問」を提示する。米国の青年たちは、第2次性徴を迎える時期に、キリスト教で言うところの「回心体験」をする事例が多く報告されている。しかし、同じような現象が日本ではほとんど上がってこない。これはどうしてなのか、というものである。
「福音主義派と回心との関係は重要で、そこにはやはり性の問題がかかわってきます」(41ページ)と語り、その要因となる「原罪」について、第2章でその歴史的背景から現在の(福音派の)受け止め方までをコンパクトに紹介している。
宗教学者としては、ユダヤ教とキリスト教を分けて考えることが前提となる。すると、島田氏が言うように「ユダヤ教には原罪はない」ということになる。しかしキリスト教は、ユダヤ教の聖典でもある旧約聖書を、新約聖書、そしてイエス・キリストの十字架の出来事と絡めることで、「原罪」という概念を生み出したことになる。このあたりは、ある程度神学的な思考が求められる。しかし考えてみれば、キリスト教最大の教えが「イエス・キリストによる私たち罪人の救い」である以上、どこかに「罪」を認識させる出来事が存在しなければならない。言い換えるなら、「罪」があるからこそ、そこからの解放や救いを希求することになる。その罪認識に「性」が用いられたということである。島田氏曰く「キリスト教の歴史とは、原罪と贖罪(しょくざい)の歴史」(66ページ)となる。
これを「鶏が先か、卵か先か」、すなわち「アプリオリな真理か、歴史的所産か」という議論にしてはいけない。私たちが現代において向き合うキリスト教、そして保守系が受け止めている福音の構成要素として、原罪が歴然と存在し、それが限りなく性的な事柄に近いものとして語られるという現象をまず「認める」ことである。本書はそのための一助となる。
そういう前提で本書を読むとき、今まで結論部分だけを突き付けられ、「どうして?」と疑問や不満を感じてきた人々に対し、「丁寧な回答」を提示するきっかけを与えてくれることに気付かされる。
考えてみると、私が大学時代に最も悩まされたのが「禁酒禁煙」という教会の教えだった。ドイツの教会、また日本でも異なる教派を見れば、酒やタバコが禁止されているわけではなく、どうして禁酒禁煙が「唯一絶対の真理」である聖書に基づいた教えなのかよく分からなかった。しかし、教会の大勢は(表面上かもしれないが)禁酒禁煙を標榜していたので、それを守り、「コンパには行くけどお酒は飲まない」というポリシーを貫き通した。しかし、不完全燃焼感は残存していた。
このモヤモヤが解消したのは、米国の福音派の歴史を大学院で学んだときだった。米国において国家規模の禁酒運動が起き、「禁酒法」が生まれるまでの過程をつぶさにひもとき、その歴史的推移を一次資料に基づいて理解したとき、私はこれを「生き方の指針」とすることに決めた。私にとっての「真理」となった瞬間であった。
保守系の信仰を持つ者たちは、このような「理解と納得」を得ることが必須である。すると押し付けられたものではなく、自らの「選択」でその教義や教えを受け入れることができるようになる。本書を読み、性に関しても同じプロセスであることを実感した。
他宗教との違い、同じキリスト教でも教派による違いがある。その違いを「差異」として認識する自由が与えられることで、私たちは「真理(と称されているもの)」を、自らの「真理」として選択することができるのである。
多少、福音主義的な「教義」から逸脱していることは否めない。しかし「教義」として昇華しきれず、不完全燃焼のままそれを抱き続けるくらいなら、客観的に「教義」や「真理」の成り立ちを知り、それと自らの信仰を対峙させてみてはいかがだろうか。
■ 島田裕巳著『性(セックス)と宗教』(講談社 / 講談社現代新書、2022年1月)
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