ハナはベッドにねそべり、ガーゼのケットをかぶってまどろんでおりました。神様に祈りたいのに、からだも心も疲れており、指を組むことさえできませんでした。
もともと丈夫なほうではないハナには、日々の家事とささやかな仕事さえつらいものでありました。からだのあちこちが、軋んで悲鳴を上げています。腰も痛い気がするし、ひじも膝も傷んでいる気がします。時間が空くたびにベッドに寝そべり、まどろんでいるうちに短い眠りに落ちるのです。‘今日もまだ聖書を開けていない’ そんな思いがハナを余計に疲れさせました。
夢の中でも、夕食の献立を考えておりました。何にも思いつかないことが悲しく、心は真綿で締め付けられるようでした。‘私は、なんて役立たずなんだろう’ そんなつらい思いが、夢の中にまでしみわたっておりました。今日できたことが、明日できるとは限らず、良く動ける日もあれば、ベッドに張り付いたようにして、あまり動けない日もありました。それでも一日一日に神様から与えられた力で、最善を尽くすほかありません。
神様はマナを天から降らせた際に、それは「多く集めた者にも余らず、少なく集めた者にも不足しなかった」(出16:18)といいます。そのように、自分に与えられた日ごとの力も、神様のお与えになる分は完全であるのだ、と言い聞かせました。しかし、力を振り絞りたくても湧き上がるもののないむなしさに、押しつぶされそうにもなりました。
ハナの夫は優しい人で、どんなに何ができなくても責めるようなことはせず、料理が作れなければ外に食べに行こうと言い、家事ができなければ手伝ってくれる人でした。それがますますハナをつらくさせました。
重い体を引きずって台所に立ち、回らない頭で冷蔵庫の中を探り、夫が帰ってくる前に何とか夕食を作りました。豆腐と牛肉とネギやゴボウを煮込み、卵でとじた柳川風の主菜と、キャベツと麩(ふ)のお味噌汁です。いつも主菜と汁物だけで副菜の一つも作れず、申し訳なく思いました。それでも夫は満足して、「ハナちゃんは本当においしい料理を作ってくれる」と笑顔で食べてくれるので、みじめな気持ちになりました。
若いときは、どこからでもなく力が湧き上がって、どこへでも行け、何でもできたような気がします。今よりずっと体も軽く、蝶が花と花の間を飛び回るように自由であった気がしました。年々からだは重みを増し、同じ年の人よりずっと早く老いを感じておりました。
また、この体の重さは、罪のゆえであることも感じていました。御霊に示されたことを行いたいのに、肉はそれとは違うことをしようとする、霊と肉の不一致が、ハナのからだを鉛のように感じさせているような気がするのです。御霊に感じるままに生きることができたなら、それはこの世に生きながらも羽を持つようなものでしょう。しかし、肉の端々まで行き渡った原罪が、そのように生きることを拒みました。ハナは自分の罪に、うみ疲れていたのです。
では、若い頃の自由さは、罪がなかったからでしょうか。いいえ、ハナは無謀にも罪を知らず、心に鉛を持つこともなく、肉の自由のままに若さのみなぎる力に任せ、生きておりました。神を知らずに、恐れ知らずに生きてきた年月を思い返しては、自分の罪の深さを想いました。苦しみも多くありましたが、それは神が神であられることを知らせるために与えられていたものだと知りました。神様は、ご自身を求める者にはその姿を現しになるお方です。ハナが神様をもっと早く求めていれば、神様にずっと早く出会っていたことでしょう。しかしハナにとっては、若い日々には神様を求めることよりも、心惹かれることがあり過ぎたのです。そんな自分を待ち続け、招き続けた神の愛の懐に入った今、ハナはその寛容と忍耐と、自分のために神様が流し続けた涙を知りました。そして、ハナは自分の罪の深さにうなだれ、うみ疲れました。
今日も、一日に昼間の4時間だけの、ささやかなパートに出かけました。ハナのパートは作業所の昼食づくりでした。小さな作業所には、知的障害といわれる人たちがグループホームやそれぞれの住まいから集まって、毎日習字や刺し子などの日中作業をしておりました。その傍らで食事を作るのが、ハナの仕事でした。
利用者さんたちは、たいていハナよりも年上でありましたが、そのあどけなさから、ずっと幼く見えました。ハナが料理を始めると、元気のよい利用者さんたちが仕事を振ってほしくて集まります。そして、それぞれに大根おろしやひき肉を練る仕事をお願いして、一緒に料理を楽しむのです。利用者さんたちは、まるで禁断の果実を食べなかった人間のように、罪を知らないように思えることがありました。それは無邪気で、悪魔の鎖につながれてもいないように感じるのです。思いやりがあり、少しのことで傷つき、涙をぽろぽろ流すこの人たちに、ハナは心から仕えたいと願いました。
この方たちよりも、自分のほうがよっぽどみじめな人間のような気がしました。悪魔は機会をとらえて、簡単にハナの心に足かせや鎖をかけようとし、ハナもそれにあらがえないのですから。つたなくも、心のままに想いを伝えあい、よくケンカもしますがすぐに仲直りをして涙を流す、利用者さんたちが小さな天使のように輝いて見えることもありました。歌を歌ってくれるのを聞きながら一緒に昼食を食べていると、ここはまるで天国で、天使たちに囲まれている気さえしたものです。
エプロンを解いて、自転車に乗って家に帰る途中に、広く大きな坂があります。川べりにある坂で、桜の木が川にせり出すように育っており、木の枝に鳥たちが行き交ってはチュンチュンとにぎやかにさえずります。ペダルに体重をかけて坂を上るハナを、皆で一斉に励ましてくれるような、心強い応援隊のようでした。
家に帰ると、自動掃除機のスイッチを入れ、ベッドに倒れ込みました。両手も両足も、鉛のように重く感じて、その重さに引きずられるようにあっという間に眠りの中に落ちました。
ハナは、激しい風の打ち付ける、暗い断崖におりました。今にも風にたたきつけられ、崖に落ちそうになって、必死に大きな木にしがみつきました。この木は決して折れることのない堅固さをもって、崖の淵に立っておりました。見上げると、それはこの世界という断崖に立つ、唯一の救い・・・十字架でありました。ハナの目から涙が滲み、それを風がさらってゆきます。十字架にしがみつき、すがっていると、次第に風はやんでゆきました。天が開けるように真白い光が降り注ぎ、天の楽器のような天使たちの歌が響きました。
その歌は言葉としての輪郭を持って響きました。「この方こそ神である」。空いっぱいに、あまりに美しい歌が響き続けておりました。
ハナは真白い光の中で、目を覚ましました。次第に光は薄らぎ、寝室の様子が見えてきました。ハナはぼんやりと窓のほうを見つめて、「知っているつもりなんです」とつぶやきました。自分は父なる神も、イエス様も知っているつもりなのに、まだまだ知らない気がしていました。イエスの愛は、神の愛は、こんなものではない、といつも思っておりました。それをもっととらえたいがために、聖書を読み、祈ってきました。でも、まだまだ、その衣の裾にも触れていないほどに、神の愛というものを知ってはいない気がしてきたのです。
それはあまりに深く、それはあまりに大きく、それは全宇宙をもっても語り切れないほどの愛であり、罪びとである自分にはとらえきれるわけのないものであったのです。ただ、その衣の裾に触れている気がしているだけで・・・。
そろそろ起きて、夕食の支度をしなければなりません。洗濯物もまだ取り込んでおりません。ハナは手をついて起き上がりました。
いつか、この原罪の染みわたったからだを手放せたとき、私たちはどれほど喜びに満ちることでしょう。死は依然として恐ろしい門でありましたが、それでも、その先の希望に心は踊ります。イエス様に与えていただいた御霊のままに生きることができるとき、心は羽を持つことでしょう。罪のくびきを解かれて、神の御力に満ちあふれるその時を、夢見るように毎日を乗り越えて。
「おかずの一つも思いつかない」とハナは冷蔵庫を開いてため息をつきます。「洗濯物もたたまなくちゃ」。生きている限り仕事があることは、ありがたいことでもありました。そうでなければ、心はすぐに体を持て余して、病んでしまうことでしょう。家事というのはまた、終わることがありません。出した先から片づけなければ、すぐに散らかり、三食の食事も作っては片付けることが繰り返されます。
ダニエルは、フライパンに油を敷き、火をかけ始めたハナのことを、天からじっと見つめていました。そして、優しくつぶやきました。「とらえなさい。とらえようと、歩み続けなさい」。その求めだけが、神に出会う唯一の道であり、求めにこそ、神様はその御顔を現してくださるのだから、と。ダニエルはささやきました。「きよめられなさい。神のみ顔を求め、きよめられなさい」
ダニエルは世界を見渡すように首を回しました。ダニエルには見えていました。この小さな地球の上で、たくさんの信仰者たちがその道を歩もうとしている姿が。
「神さま!」世界中で切なる声で求めが響いているのを聞いて、それはうれしそうにほほ笑みました。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。